私を愛さなくていい

私を許さなくていい

貴方が想うほど
傷つきやすくも無い
傷つきにくくも無い

私を愛さなくていい

だから、名前呼んで

だから、少しだけでいいから

名前、呼んで

それだけでいいから

それだけでいいから

名前、呼んで



遠い遠い、山のかなたの空に群青を帯びて夕日が消え行く。
真白い月が、ゆっくり弧を描いて昇っていくる。
吐息を吐き出すと、ゆらり煙ったコンクリートは
なおさら熱く、足音を飲み込んだ。

今日、キズハに一時間だけ、僕は買われた。

学校から離れた土手の上
キズハはいつものように
少しだけ微笑んで、少しだけ寂しそうに
なんでもないことのように立っていた。
5分ほど遅れてきた俺を怒りもせずに
来てくれてありがとう、という。

ありがとうも何も。
13万も出されて来なかったら
詐欺になるじゃないか、と言うと
鈴音のような綺麗な声で笑った。

13万円で一時間。
俺よりも貧乏なキズハに
よく、出せた金額だ。

どうする、エッチする?
何かする? と、聞くと
首を振って、道、歩いて。一緒に。
ここから丁度一時間で
スーパーに着くから。
と、言った。




13万円、よく、出せたね。
そう言うと
うん、まぁ、と
言葉をにごらせる
夜と同じ群青の瞳が
少しだけゆれた。

橙色に染まった土手の傍
緑の蛙がたまに飛び出しては
横切っていく。

昨日は、カップラーメンを食べたよ
小さな声でキズハが言う

他愛も無い話が
さっきっから続いてる

そっか、一人暮らしだったっけ

うん

『追い出されてから』
もう、二年もたつって
ちょっと、まだ
信じられないんだ

そう言ってしかめた顔に
痛みに耐えているような
変な笑みを浮かべた




キズハは背中に大きな傷跡がある
なんで、と聞いても
決して答えてくれない

羽根をむしられたようなその跡が
雨の日はうずく、と言って
よく笑っていた

やっぱり、痛みに耐えているような
変な顔で。


「ヨーシャルって、いい名前」
自分の名前を不意に呼ばれて
少しドキッとした
「そうか」
「そうだよ」
キズハが笑う。
実を言うと
じつをいうと、
あんまりキズハの笑みが好きじゃない。

ゆれるような頼りない、そんな瞳。


「ヨーシャルって希望、だろ、意味」
小さく、もう一度ヨーシャル、と繰り返すキズハが
少しだけうっとうしく感じて
思わず強く
「名前なんかどうだっていい」

キズハ、は、「要らない」という意味で
「必要ない」とか「くだらない」とか
そういう意味で、それ以外に無い。

キズハ、は、
父につけられた、と言って
その名前をとても大事にしているらしかった
心から、大事にしているらしかった

たまに誰かが
「要らない子」「くだらない名前」
なんてからかうと
急に怒りだして、
殴りかかったり喧嘩になったりしていた
そう言って笑った相手のミミに
キズハがかじりついたのも
つい最近のことだ




「ミミまだ痛い…?」
「時間経ってるんだ、痛いわけない…」

しんしん、音が消えていく
夕暮れを過ぎた夕闇が
ゆっくりおもく乗りかかる
一番星が
頭上に見えて、ちかりと光る
キズハがまぶしそうにそれを見て
「一番星だ」
とつぶやいた


以前、キズハは青あざとたんこぶを作って
学校に来た
髪はぐちゃぐちゃに乱れ、
それでも笑っていたので
僕は本気で、耳が真っ赤になって痛くなるほど、憤慨した
とても、苛苛した、怒鳴りたかった(でも誰に)
キズハはそれでも笑っていた


どうしたの、って聞いたら
父に殴られた、って言ってた


どうして、って聞いたら
少し黙って、もう少し黙って
やっと、
近づこうとしたから、と
絞り出すように言った

その時は、笑っていなかった




ふと思い立って
手でも握る?と言うと
大急ぎでキズハは首を振った
「要らない」
僕が勘違いしないように
「必要ない」
強くきっぱり、そう言った


キズハはスキンシップに弱い。
それは知っている。

以前、僕がからかって抱きしめたら
小さく悲鳴を上げてへたりこんでしまった

そのまま何分も立てないようだったので
僕らは――悪友とか僕は――大爆笑したものだ

小さく震えて、涙をためて
僕をみあげていたキズハを
よく覚えている




キズハの目の前で
彼を嫌い、と言ったことがある

おまえなんかきらいだ


「お前のさ、ハンカチ」
一番星を見ながら
キズハが少し笑う。
「盗んだの俺なんだ」

いまさらかよ、と思いながら
ああ、気がついていた、と言うと
もう一度笑って
ごめん、と言った
欲しかった、ごめん


"お前なんか嫌いだ"

"二度と近づくな"

"その目で僕を見るな"

"キモチワルいんだよ"


「ハンカチ、まだ持ってる?」

「持ってる…」

「返せよ」

「やだよ…」キズハが笑う
「俺、お前がすごく、好き」

つぶやいた後で、声が震えていた
すこしだけ、空気が




「昨日さ」
「うん」
「ラーメン食いながら
ちょっと泣けてさ」
「そう」

なんで、俺、みんなに嫌われるんだろう
なんで、俺
おとうさんにも
おかあさんにも
嫌われるんだろう

なんで、俺
…お前にも嫌われるんだろう

どこが悪いんだろう
どこが悪いんだろう
どこが、悪かったんだろう

ずっと考えていた
ラーメン食いながら
ああ、なんか傍に
誰か居てほしいなぁ、と想って
誰でもいいなぁ、と想って

そう想ったことが
悲しかった
そう想ってしまった自分が
悲しかった

ラーメン、塩味でさ
涙か、ラーメンなのか
わかんなくてさ

…俺お前に居て欲しい

「うん……」

「それだけかよ」

「それ以上にないよ」

「そうだな」

「うん」ふふ、と
キズハが笑った




内緒だけど
キズハの角を舐めたことがある
本当に内緒だけど。

夕暮れ、放課後の窓から
オレンジ色の日差しが
紫の影をつくっていた

キズハは居眠りしていて
安心しきったように眠っていた
以前、家で眠れないと
言っていたことを知っている

なんとなく舐めて
ぬるくて
なんの味もしなかった

キズハは
ちょっと顔をしかめて
小さな声で、ううんと言った

唇を放すと
安心したようにため息をついて
また寝息を立てていた

キズハ




13万円で
追い出されたんだと。

13万円で
「ひとりで生活しろ」って
言われたんだと。
「もう養えないから」

それがたくさんか、少ないのか
俺には分からない。
と、キズハは言った。

だから今アルバイトしていて
そのアルバイト先が
このまままっすぐ行ったスーパーで
「いい人ばかりだよ」
とキズハが笑う。

寂しい笑い方だった。
心もとない、ゆれた笑い顔。
うそつき、と思った。

「みんな良くしてくれる
時給は安いけど
まかない食も出るし
食材が安く買えるんだ
いいとこだよ」

泣きそうで笑いそうで
キズハが笑う。




はじめて、俺の名前、
笑わなかったのお前だけ。
ちょっと微笑みながら
彼が言ったから、
あの後からかったじゃんって応えると
俺がずっとお前のこと見てるから
いやんなったんだろ
って、笑った

わかってるねー

わかってるよー

わかってねーよ

なにが

お前馬鹿だろ

いらいらした
心から
いらいらした。

キズハは笑って
うん、馬鹿かも
って言った

殴りたくなった




いい子にしてるから。
いい子にしてるから。
いい子にしていたら

「抱きしめてくれないかな、ほめてくれないかな」って
ずっと想っていたんだ、

キズハが言う
自分に言い聞かせるように

お父さんに嫌われるのも
お母さんに嫌われるのも
みんなに嫌われるのも
いい子にしてないからだ、
お父さんはいつもそう言うし
そうだろうな、と
自分も想っていた

「でもいい子ってなかなかなれないの」
くすくす、そう言って笑う
笑い方が辛くって
僕は右に目をそらす

夜はだいぶ落ちてきて
金色の月がてかてかしていた
寒い風が吹き始めている

どうしても求めてしまう
トートに
マーマに
手をつなぐだけでいい
頭なでてくれるだけでいい
ほめてくれないかな
名前を、
呼んでくれないかな

いい子になりたかった

「なりたかったなぁ」




「ここまででいい」

不意に、キズハが言った
スーパーの明かりが
気がつけば、目の前にともってる

「まだ一時間たってないぜ」

からかうように言うと

「キスして」

思いのほか、真剣な声で
言われた




ここでキスして。





唇を放すと
戸惑ったように
僕を見て
地面を見て
僕を見て
震える声で、つぶやくように

「ありがとう」と笑った。

唇だけ笑って
顔が
いっつも顔が笑っていない。

そんな妙な泣き顔つくって

「ありがとう」って言った。


ずっと、誰かに
許されたかった
ずっと、誰かに
僕は僕でいいよって
言われたかった
ずっと、誰かに
一緒にいるよって
言われたかった

もう一生
幸せになれないんだって
どっかで気づいて
それで、ラーメン

ラーメンさ、食ってる時
気づいて
…キスしたかった

俺、言ってること
めちゃくちゃだな
ごめんな

…いいんだ
誰にも、なんにも
なれなくても
愛されなくても
いいんだ

俺、ありがとう
嬉しい

俺、俺でも
キスできるんだな

…ありがとう
……いいやもう
これで
少しは
もういいや
はは

…ありがとう

…ごめん
ごめんな、もう行くな

明日な、また明日
明日、学校で

学校でな。

とうとうと続く孤独の声で
とうとうとしゃべって最後に
「ごめんね」って言った。


その時ほんとうに頭にきて
もう本当に頭にきて
全部なにもかも頭にきて
手のひらをぎゅうっと握って
そのまま、
キズハのほほをひっぱたいた。

キズハの顔が勢いよくはじけて
ほほがみるみる赤く染まった


そこから何かが崩れ落ちたかのように
なにが言いたかったのか
やっと分かった

「おまえはおまえでいいんだよ!!」

キズハが僕を見上げる
ほうけた顔で

夜、静まり返った道に
僕の声が響く

「おまえがいいんだよ!!
俺は、おまえがいいんだよ
なんで、おまえ」

急に涙があふれた、
泣く気もないから悔しかった
飲み込もうとしたら嗚咽になって
息が出来なくなった

「ごめん…」

あわてたようにキズハが言う。
そのあとをどうしていいのか分からず
手をあげたり下げたりしていて
わかってないなぁ、と思った
僕は

「もうお父さんなんかほうっておけ置け」

びくっとキズハが肩を揺らした

「お前が嫌いな奴なんかほっておけ
不幸に浸ってるお前が嫌いだ
それでも嫌われる奴にしがみついて
希望を持ち続けるお前が
僕は大嫌いだ」

気がついたらキズハは泣きながら
僕を見ていた

ぐずぐず嗚咽をあげて
馬鹿みたいに見っともなかった

僕はもう泣かずに
キズハをにらみつけていた

キズハのずっと笑っていた眉が
やっと下がって
やっと彼は泣きながら
子供のように泣きながら
しゃっくりをあげた。

僕は、馬鹿だろって言いながら
キズハを抱きしめたんだ

これで終り
本当の終り
おしまい

最後に付け加えるなら
二人で食べた塩ラーメンは
やっぱり
しょっぱかったよ
(シリーズ: noSeries )
2010-06-13 22:08:16