2017-09-27

精神性世界と、形のない世界

何かができる、というのと
精神性というのは
別の次元のもので
本来は、比較の対には
ならない

精神性をもとめていくと
階段をあがるように
できることが深まったり
増えたりするのだけれど

精神性とできることを
比較の対として
上げるなら、その時点で
誤認があるのだと思う

……

精神性は
思想、思慮、哲学、智識
「概念」と友になりやすい

できること、というのは
現実であり
また行為

……

形なき世界は
概念がない

エネルギーに
なにがしかの
かんしょうができる、というのは

形なき世界に
なにがしかの行為ができて
その結果、ものごとが
かわる

手で触れたり
足で歩いたり
目でみたり、みぬいたり
コミュニケーションがとれたり

そうした世界に
そうした行為ができる

……

その世界は
概念がないため
精神性の世界とは
ぜんぜん、別のもの
別次元のもので
イコールにはならない

精神性の世界は
概念をもさくしたり
概念と概念のはざまで
なやんだり
くみとったりして
精神をみがくことに尽力している

概念がなければ
精神性の世界には
触れれないかというと
そうでもないのだけれど

とにかくなにがしかの
概念があれば
それにより精神性を象ることができる

精神性をかたどると
みえるのは
他人のすがたではなくて
己の精神や心の姿

まわりを象ることにより
己を浮き彫りにして
みすえる

己の知りざるを知るような
そんなところがある

……

形のない世界と
精神性という象りの世界は、
対になるようで
ならない

象りの世界の
とある境地から
形のない世界に
触れる方はいるが

形のない世界は
概念がないため
概念を手放す、すなわち
思考のない
無心の状態になれなければ
受け取ることはできない

……

無心は
形のない世界に
触れるための作法のようなもので

形をいっかい手放す
こころを象るものを
手放す

それは雑念や意識ではなくて
たんなる集中になる

傾聴ににているか

……

悟性と誤認される時もあるけれど
無心は悟性ではないと思う

むしろ訓練、修練で身につく……
柔道のカタのようなものだと思う

……

私は、悟りのことは
しらないけれど


たぶん、それは
象りながら
己を研磨し
質をたかめていく
精神性の世界と

象りではなく、行為により
心や魂の力や
実態を研磨していく
形のない世界の

邂逅なんではないかと思う