つきあかり、あのひ、なみだ

闇虫について

闇虫【やみむし】
辛い悩みや、混乱に憑くと言われている魔界の虫
漆黒の細長い体を持ち、
何匹か固まりとなって宿り主の体に巣を食う

宿り主が快楽を覚えていないうちは、
広がりもせず、「悩み」を食って生きているが、
一度快楽を覚えると、執拗にそれを求め
積極的に宿り主を侵すようになる

広がりきると、脳にこの虫の思考が混じると言われ、
最終的に、宿り主は深い眠りにつくか、発狂する。

闇虫を治す手段はただ一つ……

***

はじまり

闇の中で
亀裂の走る音がする
きつ、きつ、きつ
あれは命を食む魔の音

「……はいれ」

連れてこられた場所は廃屋だった
壊れた景色、窓から見える月は、糸のように細い
廃屋の中を数分歩いて、一つの扉に来た
禍々しくきしんだ扉の奥から、何者かの気配がする
ここに自分が連れてこられた原因があるのだ

悠が扉を開ける
神崎/悠(かんざき/ゆう)
春のクラスメイトだけれど、喋ったことはない
春といわば対極のような人だったから

寒さと、恐怖に、もうずっと震えながら歩いてきた春は、
悠に手を引かれ、転びそうになった

最初は暗くて何も見えなかった
ただ、きつ、きつ、きつ、という不可解な音がしており
肌で感じるその音に、身に覚えがあるような気がして
春はぞくっとした。
誰かが息づいているのを感じた
何か、すざまじく嫌な予感がした

「つれてきたの、悠」

奥のベッドらしきものに寝転んだ、人のような影が言った
だけどおかしい、人にしては闇がこく、
肌色の影と、真っ黒の影がまだらになっている
春はどんどん迫ってくる恐怖に、心の底からおびえた

悠がなんのつもりでここに連れてきたのかはわからない
ただもう怒らせないようにして、早く帰りたかった
帰っても、冷たい地獄が待っているだけだけど
ここよりはずっとずっとましだと思った

「……」

無言で悠が電気のスイッチをいれた
ぱちっぱちっと電光が瞬いて、真っ白な光がついた
まぶしくて春は目を細める
その目が一気に見開かれた
目の前には、顔と言わず、体と言わず、
闇虫に食われ、今もなお食まれている人間の姿があった

気がつかなかった、
春は悲鳴を上げていたらしい、
悠の手が口を覆っていることがわかって
やっとそれに気づいた

「ゆ、ゆるして、も、ゆるしって、かえる、おれ」

泣きながら春は言った
首を振っても、悠は放してくれなかった

「金なら、お前の父親に渡した、
お前の相手はあいつだ、
逃げることは許さない」

淡々と、悠はしゃべる
その内容に春は絶望を感じる
闇に食まれる「あいつ」が、じっとこっちを見ている

「逃げたら……、」

続きを聞くことはできなかった、
目が白黒して、
がくがくと腰が震えて、
気がついたら力なく座り込んでいたから。
腰の感覚がなくなっている

悠が少し驚いた顔をした
え、と思ったら、漏らしていた
***

廃屋の風呂

驚いたことに、廃屋には風呂がついていた
温かいお湯につかりながら、また少し、春は泣いた
自分が情けなかったし、悠とあの闇虫の彼と
これからどのようなことが起こるのか、
悠がなにをさせたがっているのか、
検討もつかなくて、泣けた
お風呂はゆっくりと、春の涙を吸い取っていく
ここにもいたみかけた小さな窓があって
笑ったような三日月が見えた

「おい」

外で悠の声がした
びくっとして、春はすぐに湯船からあがった

「い、今あがるから」

怒らさないように、怒らさないようにしようと
春はそれだけを考えている

「いや、違う。
着替えを持ってきたから。
ここに置くぞ」

「う、うん」

春はとりあえずもう一度湯船に入った
鳥肌が立っていた
そっと、脇腹の辺りをなでる
そこには、あの闇虫の固まりよりは幾重も小さい、
春の闇虫が蠢いていた

(怖いよ……誰か……)

自分もいつかあんな風に固まりになるのだろうか、
いや、そうなる前にこの廃屋で死んでしまうのかもしれない

春は自分を抱きしめるようなポーズをとりながら、
月を見上げた

ただ冷酷に、月は光っていた
***

スケッチブック~季志の闇虫~

もう、三日も経っただろうか、
太陽は普通に昇り、普通に下り、
悠の作るご飯を食べながら、ここで暮らしている
刻々と変わる闇の濃さが時間代わりだった
今もまた、夜食にと悠の作った軽食を齧りながら、春は聞いた

「その闇虫……は、どうして、そんなに広がったの……」

(話し相手になってくれ)
悠の懇願する様子を思い浮かべながら、
春はたどたどしく、言葉を口にした

驚いたことに、悠は春に頭を下げた
その眉が悲しげに歪んでいることに
春はもっと驚いた
(お前がおびえるのもわかる)
(あいつはもう長くない)
(お前としゃべりたがっていたんだ、頼む)

「……」

くすっと、彼が笑った
彼の名前も、まだ聞いていなかったことに、
今更ながら春は気づいた

「もうだいぶ慣れたみたいだね」

微笑むその目が、不思議と優しい
闇虫の禍々しさに、それは不釣り合いで、不格好だった

しゃべれと言われて、夢中で何か、しゃべった気がする1日、
少し慣れて、相手のぽつり、ぽつりとした話を聞いた1日、

闇虫が広がりだした時から、この屋敷に逃げ込んだこと、
悠がそのあとを追ってきたこと、
なぜ闇虫がついたかは、わからないこと
などなど。また、驚くことに、闇虫の彼は話し上手で聞き上手だった
比べて春はしゃべることに慣れていない
闇虫の彼が辛抱強く、春のわかりにくい話を聞いてくれることを、辛く思っていた
こんなに、春の話を聞いてくれる人は、今までいなかった

「最初は……ごめんなさい」

春が頭を下げる
それに、いいよ、と笑って、
彼は上半身を起こした
体の半分以上を覆っている闇虫が、きぃきぃとざわめきながら、
つられて蠢く
やはりその様子は恐怖を感じる

この三日間でなんとなく、思っていることがあった
彼が誰であるか。
それは確信に近い
かすかな響きで、春は一人の名前を口にした

「邱田……
邱田季志……?」

「うん……?」

彼が振り返る

「……」

じっと春を見て、顔をほころばせた

「ああ、そう言う意味?
そうだよ、俺は邱田季志。
君のクラスメイトだった人」

ああ、やっぱりそうだったのだ
春は一瞬、その残酷な事実に涙が浮かんだ
つばをぐっと飲み込んで、
下を向いた
邱田季志は、春の憧れだった人だ
春だけじゃない、多分全校生徒、季志に憧れない人はいないだろうと思わせる
そんな人間だった
頭がきれて、運動能力もあって、いつもなにがしの人たちに囲まれて
笑いさざめいていた
春の周りを闇が覆っているなら、彼の周りは光が覆っていた
それなのに

「がっかりした?」

季志は穏やかな顔で、慣れたように聞いた
春はぶるぶると首を振る

「ち、違う、ただ……」

自分にわき上がった感情が何なのか、言葉にすることができなくて
春は口ごもる

「ただ……」

「……」

くすっと季志は笑って、ベッドの上に設置してある小ダンスの戸をあけた
中に一冊の本。
それを見て、春はぎょっとなった
自分の作った山の絵のスケッチブックだった

「この絵、君のだろ」

季志が目を閉じて、少しのびをしてスケッチブックを手に取った
湿りかけたスケッチブックの背表紙に、あの時の泥の跡がまだくっきりと残っている
踏みにじられた春の絵

「どうして……」

「道に落ちていたから……
悪いかもしれないと思ったけれど、
君が大事にしていたのも知っていたし」

季志はそう言いながら、ページを一枚めくる
最初は冬の山、草花が散り乱れ、柔らかな雨が降っている

「これは君が描いたの……?」

無言で春は目をそらした

春の家の裏をから道をまっすぐ行くと、
少し小さな山がある
補強されたハイキングコースがあるので、
休日になると数組の親子連れでにぎわうような、そんな山だ
子供の頃から大好きな山で、
嫌なことや、辛いことがあるとよく一人で登って、
木などに寄りかかって景色を眺めた

ふと、その景色を絵に描いてみたらどうだろうと、
こっそり800円の色鉛筆と1000円のスケッチブックを買い、
描いてみたのが始まりでへたくそな画力はもどかしさを感じたが、
描く度に不思議な陶酔感と、山の細々した景色がいつもより記憶に焼き付いて
うれしくなって
何枚も何枚も描きためた、そんなアルバムだ

「もう、いらないから…」

「……」

季志が困ったように笑いかける
その笑顔になんだか惨めに感じて、春はぐっと手のひらを握りしめた
汗をかいていた
嫌な思い出に、翻弄されそうな気がした

「あんなに大事にしていたじゃないか」

季志までそれを知っているということは、
隠していたつもりでも、世間にしてみれば、
ばればれの宝物だったに違いない

それが踏みにじられたのは一年前のバレンタインデーだったと思う
きらびやかなチョコレートが、店頭に幾重も重なって並んでいたから。
山に登っていたら、遅くなってしまって、
帰り道を急いだ

家に着くと、門の前に嫌みをそのまま顔にしたような、
父が立っていた

春は父に嫌われていた、
それは十分わかっている

父は妙に猫なで声の、気持ちの悪い声で、
「あの山に行ってきたのか」
と言った
怖くて、怖くて、何も言えなくなっている春の腕をつかんで鞄をひったくり
中のものを乱暴に散らかし
「この絵はなんだ」
と、スケッチブックを顔に押し付けてきたのだ
「ええ、なんなんだ?」

何を言われたのかは全部覚えている
だけど苦しくて、思い出すたびに苦しくて、
父は何度も汚い言葉を口にして、
春の軟弱さと、精神のもろさをののしった
そのスケッチブックと色鉛筆を地面に投げつけて、足でぐりぐりと踏みにじった
春が泣きそうな顔をしたのを見て、それはうれしそうな目をして、
何度も何度も

「杜?」

「……!」

思い出に飲み込まれていた春は、声をかけられてはっと気がついた、
そうだ、ここはあの冬の日ではなく、季志と悠の屋敷なのだ
闇虫の蠢く壊れかけた家

「ごめん、辛かった?」

季志が尋ねる
春はぶんぶんと首を振った

「大丈夫……」

「……杜がいらないなら、
これ、俺が持っていていい?」

「あ…でも」

本当は、春のへたくそな絵、ふみにじられた絵など、
誰かに持っていてほしくない、だけど、
心のどこかで、彼なら、と思っている
少しの葛藤があった

「いい、けど……、あの、へただから、
あんまりみないで……」

見た人がほっとするような、笑みを見せて
季志はそれをもう一ページめくった

「俺この4ページ目の、鳥の絵がすごく好き」

かあっと春は赤くなった
ぱらぱらと季志が4ページめをめくる

「茶色の鳥、なに鳥、だっけ」

春が体を乗り出す
なんだかドキドキした、そんな風にいわれたことなど
今まで一度もなくて

「一番鳥だ」

「一番鳥?」

「ほんとの名前は知らないけれど、
山に朝行ってみると、必ずいるんだ
一番に見ることが多いから、そう、呼んでたんだけど」

「この鳥、好き?」

「え」

心臓がきゅっと跳ね上がった
季志がなんだか楽しそうにこっちを見ている
彼のそばに近づきすぎたことに気づいて、
そっと春は離れようとした
その腕を季志がつかむ
闇虫がきぃっと鳴いた

「ごめん……、でも逃げないで、
ここで話して欲しいんだ」

「……」

春はほほを染めてうつむく
自意識過剰だと思ったけれど、
人に話を求められたことなど、初めてで
なんだか心音が痛いほど高鳴っていた

おなかに巣を食う、闇虫が、奇妙なほどざわめいていた

「この鳥、好き?」

季志が話を戻す

「……うん、綺麗だから」

「綺麗なんだ?」

「うまく描けなかったけど、
ほんとうはもっと綺麗なんだ。
目が、きらきらしているんだ、
人に慣れてなくて、
孤高の鳥って感じで
人の足音を聞くと逃げちゃうんだ、
僕はなんだか許してもらっているみたいなんだけど、
でもやっぱり近づきすぎると逃げちゃう
春先になる、赤い木の実をついばんでるところなんか
すごく綺麗で、なんだかすっとするんだ」

「すっとするんだ」

「うん……」

「いいな、山、行きたいな」

心底うらやましそうにつぶやいて、
もう一枚、季志がページをめくる

「びょ、びょうきがなおったら」

ドキドキしながら春は言った
何を言う気なのか、自分で自分がわからなかったけれど
言わずにいられなかった
春の闇虫が、鼓動にあわせて、どくん、どくん、と蠢く

「一緒に山に行く……?
そしたら、案内するよ」

ふわっと音がするように、季志が微笑んだ
闇がだんだん濃くなる
夕焼けの雨のにおいがかすかに漂っていた
季志に絡み付く闇虫を足しても
綺麗な笑みだった
***

スケッチブック~春の闇虫~


風呂は好きだ
こんな風にゆっくり入ったことはなかった
いつも、いつも、父に風呂が長い、と因縁をつけられてしまうので、
早め早めにあがるようにしてた、だけど、
できるならば1時間ぐらい、たっぷりつかってみたかった

癖が抜けなくて、15分ぐらいで早め早めにあがっていたら、
悠がむすっとした顔で
もっと長く入ったらどうだ、と言った

春は悠が怖い
なんだかいつも怒った顔をしているし、
季志と比べて意地悪な気がする
クラスの中で、悠は目立たない存在だったが、
それでもその活躍は地味に噂になっていた
将棋で(春にはよくわからなかったけれど)なんとかという先生を打ち負かしたとか
学年でよくトップをとるけれど、
全学校でもトップクラスの成績だとか、
なんだか春には想像もつかない人だ

困っていたら、季志が横から助け舟を出して
「杜、気を使うことないんだよ、
悠はさ、そう言ってるんだ、
ここは寒いし、風呂ぐらいゆっくりはいりなよって」
いたずらっ子のように目配せされて春はよけい戸惑ってしまった

だけれども、二人が入れというのだから、入ってもいいのじゃないかな、うん

ちゃぷちゃぷと顔をなでながら、春はつぶやいた

大変なことになりましたね

一人演技のようなことを、時折春はやる
誰かが答えてくれる気になって、一人で話しかけるのだ
人に見つかったら、ましてや父に見つかったら
笑われるだけではすまされないだろうと思っているが、
気分が良い時は、ついつい調子に乗ってしまう

こんなにお風呂に入ってよいのでしょうか

そうはいいますけどね、お二人のご好意を無視する訳にも

いやいや、お風呂好きというのは差し引いても、
入っていたいものです

きゅうきゅうと、おなかの闇虫がないた
湯のなかで、それはくぐもって見えて
少しだけ、悲しくなる

がらっといきなり扉があいた
跳ね上がるほど、春は驚いた
ばちゃんばちゃんとしぶきがあがった

きぃぃ、っと、闇虫が蠢いた

「あ、すまん……」

さっと手を挙げて、悠が言った

「入っているとは知らなかった、
電気、つけなくていいのか?」

「………………」

どうしていいかわからない、というより思考回路が切断されて、
春は目を白黒させて、汗をいっぱいかいた
虫が、きゅうきゅう騒いでる
悠が困ったようにぽりぽりとほほをかく

「暗い方が月明かりが出てていいよな、
俺も結構好きだ、杜は、月が好きなのか?」

後に冷静になって考えれば、悠も慌てていたのだろう
訳の分からないことをずいぶん言っていたと思う
だけど今は、春の思考回路は赤く点滅して、
途切れ途切れの妙な単語しか思い浮かばない

安心しろ、安心しろ、闇だから、闇だから、見えない

「月、綺麗だから、お湯の中で綺麗だから」

「うん、なんか時折怖いぐらい綺麗だよな、
都会に出ると、星が無い夜があって、月しか見えないんだと、
怖いと思わないか?俺は怖いと思う、
じゃ、すまなかった」

がちゃっとドアがしまった

たっぷり数分置いて、どっぱんと春は湯船に潜った
ぶくぶくぶくっと息を吐いて、またどっぱんと顔を出す

「ううううう」

耳が真っ赤に染まる、熱いだけじゃない

「あ……っ」

春はぶんぶんと首を振った
闇虫に気づかれたかもしれないと言う焦りと
独り言を聞かれたと言う恥ずかしさに
どうしようもなく、もだえた


風呂からあがったあと、体を拭くのも好きだった
柔らかいタオルで水滴を残らずとると、
さっぱりとした開放感があって、
ああ、あとは布団に潜るだけだ、と思うのだ

だけど今日はそんなことなど考えていられなかった
あれから何十分経っただろう
なんだか出るに出られなくて、
こんな長湯をしてしまった

ひやっとした空気の中で、悠が買ってくれたパジャマに手を通す
パジャマは少し大きくて、くすんだオレンジ色をしている
その風通しのよい、さらさらした感触に、
春はすごくいいな、と思っている
家ではいつも捨ててもいいシャツを着て寝ていた

てくてくと、自分の寝床に歩いていく。
寝床は風の通らない、
だけど換気のいい部屋で、季志の部屋の隣にある。
ちょうど良く暖かくて寝やすい部屋だ。
悠の部屋は季志のを挟んで、向こう、
風呂の隣にある
ふと、そこのドアが開けっ放しになっているのに気づいて、
春は躊躇した
あんなことがあった後で、どんな顔をして会えばいいのか
気まずくてしょうがない

見ないように、見ないように、と思いながら、
春はその前を通った

「あ、あがったか」

そんな気遣いなどまるで役に立たなかったらしい、
春に気づいた悠が、部屋から声をかけてきた

「あ、す、すません」

「んん、いやいや、月見は面白かったか?」

むすっとした顔(に春は見える顔)で悠が部屋から出てくる
その手で持っているものを見て、春はぎょっとなった
自分のスケッチブックだった

春の視線を追って、悠が気づく

「ああ……」

ぽりぽりと、またほほをかく
癖らしい

「いい、絵だな」

鮮やかに微笑まれて、非常に驚いた
その顔が、思った以上に柔らかくて、
もうどうしていいか分からず
春はもじもじと手のひらを握った

「ごめんなさい」

なんだか謝ってしまう

悠が首を振る

「なぜ?俺はほめているんだ」

「ごめんなさい……」

おなかがきゅううっと鳴った
嫌な虫、春の傷跡

「いや……、俺は、その、怖いか?」

そんな音などおかまいなしに、悠は尋ねる
気づいているのか、いないのか

「……」

ぷるぷると春は首を振った

「怖いのは、僕が悪くて、臆病だから、
だから神崎はちがくて」

「……面白い話をしてやろう、
赤鬼というのが昔あってな」

「赤鬼?」

突拍子も無い展開に、春がきょとんとする

「うむ、なんだかそいつはいいやつなのに、
外見が怖いから、うとまれていてな、
村人に石を投げられたりしたんだそうな」

「石……」

春は自分が投げられたように、顔をしかめた
無意識に、おなかの病傷をさする

「でな、なんだかいろいろあって、
最終的には友達と戦って、
戦いにやぶれて、泣いたんだそうだ」

なんだか違う気がする。

「おしまい」

「ええ」

春はもう悠がまったく分からない
突然なんでこんな話をするのか

「この教訓はだな」

「?」

「顔が恐いからって人を怖がってはいかん」

じっと春は悠を見た
ぷっはっと息をして真っ赤になる

「なんだ、笑っているのか」

「笑ってないです、笑いそうなんです」

「なら笑えばいいじゃないか」

「神崎は、顔、怖くないから、
だから、怖がってもいいんだ」

「いやいやいかん、そういう話じゃない」

「そういう話だっていった」

「どういえば分かってもらえるんだ」

とうとう春はくすくすと笑い出した
悠が何かを思うように、その顔を満足そうに眺めた

「普段からそーゆー顔をすればいい」

「え?」

また変な話をはじめた、と春は笑顔のまま、悠を見上げた

「かわいい」

「へ?」

何を言われたか分からず、ぽかんと悠を見上げる

「ん、あ、まぁ、な。じゃ、俺は風呂に入るから」

悠がぽりぽりとほほをかきながら、歩き出す
その後ろ姿を、春はぽかんとしたまま追った
耳が真っ赤になってるなぁ、とぼんやり思う
悠はスケッチブックをまだ持ったままだ
***

癒し~季志~


雨が降っていた、
目覚めて真っ先に、雨が降っていると思った
木としっくいの壁でできた部屋は、
雨の湿気をゆっくり吸って、少しじめじめしている

傷跡のある人は
雨が降ると、痛むと言う
それと同じように、闇虫も、いつもより饒舌に騒いでいる

ふっと、途切れるような絶望と、
悲しさじゃない、切なさじゃない、言うなれば寂しさのような感情で
春はそこをなでた

でこぼこして、蠢いている虫の感触が手に残る

悠は、何も言わなかった
気づいていないのかもしれない
季志で慣れているのかもしれない

少し伸びをして、吐息をつき、
たたんでおいた服に着替える
悠も季志も、お金には困ってないらしい
春が当分暮らせるだけのものは、十分に用意された
ここに連れてこられて、3日のうちになされた

誰のお金かは、聞いたことが無い
なんとなく悠側のではないかと思っている

そう言えば、一番最初、夜見た時に、
廃屋だと思ったこの場所も、どうやらきちんとした「やしき」のようだ
少し古くて、壊れかけているけれど、
ガス、水道、電気はなんだかちゃんと機能している

セーターを着込むと、
朝つくようにしておいたストーブのスイッチを切って、
季志の部屋に向かった

朝ご飯は季志の部屋で。
悠が用意することになっている
手伝おうと思って申し出ても、悠はむすっと拒否する

(あの顔……、「地」なのかなぁ)

昨日のことを思い出しながら、春は歩いた
怒っている訳じゃないのかもしれない
鬼の話に思い出が流れて、春はくすっと笑った

きぃっと闇虫がないた

水を差されて、春は眉をひそめた
悠が気づいているかもしれないと言う不安が、またわき上がってくる

季志の部屋に入ると、季志は首だけ持ち上げて、
春を見た。
春とは比べ物にならない闇虫が、ぎぃぎぃとざわめく

「悠、寝坊しているみたい、まだこないよ」

「へぇ」

驚いきながらも、春は床に春の座布団をしいて、座った
少し沈黙
雨の音が、しとしと部屋に満ちている

「僕、朝ご飯の用意……」

「あーしないで、春。
ここねぇ、キッチン、変なんだ、
ちょっと使いにくくてね、
慣れてないとあちこちぶつけるし。
春にそんな目にあってほしくないから」

手をはたはたふって、季志が笑った
季志の笑みは温かい
穏やかで、水に広がる波紋のように浸透する
昨日の悠の笑みは、あでやかだった
花が咲いたみたいに

思い出しながら、春が言う

「神崎、おこしてこよ」

「あ、やめて、春」

くすくすと季志が目を細める

「慌てるの、見てようよ、どんな顔するか、見てみたい」

ききっと、季志の闇虫が叫んだ
笑ったように

「ちょっと意地悪じゃない?」

春もちょっとだけ笑って、言ってみる

「いいんだ、あいつなんかいつも無表情で、面白くないだろ、
たまには感情出せよ、っつってんだけど、
どうやって出したらいいかわかんないとか言うし、あほだから」

変な理由を季志は言う

「やっぱりむすっとしているわけじゃないんだ」

「あーそう見える?やっぱり?
なんかなー絶対損してるよな、
笑うとかわいいの、知ってた?」

「うん、昨日知った」

「それまでどう思ってた?」

「コワイヒト」

季志がげらげら笑う
つられて春もくすくす笑う

「いいやつなんだぜ、
一途だし。馬鹿だし」

「ばかなの?」

「ばかだよー自分のことさえよくわかってないから。あいつ」

「へぇ」

季志の部屋にはポッドが置いてある
動けない季志のために、飲みやすいように、
水と、お湯と、ティパックが用意してあるのだ

「お茶飲む?」

春は聞きながら、ティパックをカップにいれて
それを二つ用意する

「ありがとう」

目でその動きをうれしそうに追いながら、
季志が言った

ちゃぽちゃぽとお湯を出すと、
湯気がふわっとわいた
いいにおいがただよって
おなかがきゅうっと音たてた、
これは闇虫ではない、おなかの空いた音

「邱田と、神崎は、……」

その後が続けられない、
どう言っていいのだろう、どういう関係?
友達に決まっている
そうじゃなくて……
でも何が聞きたいのだろう?

「あー恋人?かなー」

「こいビト?」

察してくれた季志が、あっさり言った
どうやら春は、びっくりすることを聞くと思考が停止するらしい
自分でそのことに半分気がつきながら、ぽかんと口を開ける

「こいびとって……男同士で?」

「あれー、おくれてるな、春、そういうのに理解のないほう?」

「んーん、びっくりしただけ……
そういうの、あるんだ」

「あるねー、
ありがとう」

紅茶を受け取りながら、季志が微笑む

「俺たちはどちらかっていうと、
恋人っていうより、セフレって言った方がいいかもしれない」

「セフレ……?って?」

「…………」

季志の目が、何か、面白いものを見つけたように細くなる

「悠に聞いてご覧、親切に教えてくれるよ」

「季志は教えてくれないの?」

「あげない。」

なんだか悲しそうに季志は言った

「あげれない」

「?
そうなの」

「うん」

「悪いっ!!!!!!」

ばったんと、扉が開いた
なんだか目がまんまるくなっている、悠が立っていた

「寝坊した」

「おはよー悠」

「おはようございます」

「すぐめし作るから」

「んーばつとして俺はパン3枚ね」

「食いきれないだろ」

「おなか空いてるから食べれるよ」

「あ、僕も3枚」

春が急いで言った
その様子をまじまじ見ていた悠が、ぱっと、笑った
新春に、一番の花が咲いたような笑顔だった
春は山に咲く、大好きな桃色の花を思い浮かべた

「ごめんな、すぐ作るから」

「手伝う?」

「座ってろって、季志の相手して」

「そー春ちゃん、ぼくちゃん、さみしぃーの、
あいてしてして」

「やだ……も」

くすくすと春は笑う
おなかがころころなった
闇虫がきぃきぃ言った


悠の食事はおいしい
聞いたら、慣れているから、と言っていた
実家で、何日かにいっぺん、食事当番が回ってくるらしい
料理自体は好きでも嫌いでもないらしくて、
昼だけは店屋物をとって、
夜と朝、悠が作った

午前11時。
朝食を食べたのが、10時。
この屋敷の朝は早い

その理由は春はわかっている
闇虫を体に飼っていると、朝はどうしても早くなる
闇虫の鳴き声と、ざわめきに、神経が目覚めてしまうのだ
寝ようとすると、悪夢を見る
春でさえそうなのだから、
大量に憑かれている季志はなおさらだろう、

それでも
やることもないし、早くに寝るので、
辛くはない
家で、責められて泣いて、なじられて、
よく眠れなかった時より、ずっとらくだと思う

おなかがいっぱいになっているのを感じながら、
読書をしていた春は、ふと、顔を上げた
闇虫が、なんだか落ち着かないようにざわめいていた
なにかが起こっている、と思った
不安になって、春は立ち上がり、
そっと扉をあけて、廊下に出た
湿った空気が、淀んでいる

闇虫は、季志の部屋に近寄ると、余計にざわめいた
不安がいっそう強くなる
心臓がドキドキした、手のひらがじっとりと汗ばむ
声をかけてドアを開けようとして、
中でくぐもった悲鳴があがるのを聞いた

春はノブにかける手を止めた

……!!……っ

……季志……

かすかに漏れる、季志と悠の声
あけるのを、なんだか躊躇するような声だった

悠っ……くそっ……いっ

……季志……はっ……かわいい……

あっちっちきしょ……きもちっっ……いいっ

季志っ……季志っ……

ドキドキした
おなかの闇虫が、いままでにないぐらい騒いでいる
やっとわかった、

(してるんだ)

そういうことを、春は知識としては知っていた
男同士でどうするかはわからない
本当に基本的な知識しか知らない春は、
自分でしたことも、ましてや他の人としたことなど、
一度も無い

かっ…かじるなっ…いっあっ

ここっ?ここがいいのか?

あっそこっそこ……もっとっ……

季志が泣いたような声を出す
春はぎょっとなった。自分のものが、ふくらんできているのがわかった
闇虫が、その鼓動にあわせて騒いでいるように思える

はあっ……あっあうんっ……

どろどろになってる……っいれるよ…、いいか?

うんっ……はっ

……

……うううっうぐうううううううっ
あっはいるっああっ

あっくっ

いいあああっあああっあああああ

くっはっはっ

ぎしぎしと、ベッドのきしむ音がする
それに絡み付くような、ねばっこい、季志の闇虫の音も

気がついたら、春は痛いほど高ぶっていた
おなかの闇虫がうるさい
どうしていいか、わからなかった
自慰のやり方など、春は知らない

ふらふらと、そこを離れる
なんとか歩いて
歩くたびにずきずきして、
部屋に戻って、扉を閉めて、
ベッドに倒れ込んだ

「はっ……はっ……」

そっとそこをこすってみた
びくびくっと、全身に電流が走るように、快楽がうまれる
無意識のうちに、春はそこをベッドにすりつけていた
頭の中で、さっきの季志の喘ぎ声と、悠の声がうかぶ

「はっ……あっ……うう」

だんだんと快楽が渦を巻いて、体にとどまる
何かを目指すように、春は動く
闇虫が、きぃ、きぃとないた

「ううっ」

急に、強い快楽が迫って、
春はそこから何かが吐き出されたのを感じた
そこを強くベッドに押し付けると、
びくん、びくんと、足が動いた

(しゃせい……)

「あっ……はっはっ……はあっ……」

闇虫が騒いでいるらしい、
いつもの鳴き方じゃない、
もっときつい、快楽をむさぼるような……

今の春には、それさえ遠い出来事だった

12時
もうすぐお昼になる


あれから30分後、
泣きそうな顔で、春は鏡を見ていた
洋服をめくって、脇腹の闇虫をじっと見る

「広がってる……」

聞いたことがあった、
自慰などをすると、闇虫は広がる
そしてまた、一度快楽を覚えると、
次々とそれを要求する。
それは発作となって、宿り主の体を浸食する

「どうしよう」

だしきった後だ、今はまだ彼らは騒いでいないけれど、
その発作、要求の発作はいつくるのだろうか
そしてまた、春はそれを押さえることができるのだろうか
涙がにじんだ、
自分は大変なことをしてしまったのだ
もう取り返しがつかない
いつか、春も季志のように全身をくまなく覆われる
その時、季志には悠がいるけれど、春には誰もいない

誰もいない

春は肩を抱いて、自分が震えているのをなんとか押さえようとした
心底怖かった
闇の孤独に、落ちる気がした

こんこん、とノックの音

「春、お昼だぞ」

悠の声だ

「はい」

かすれた声で返事をして、
春はティッシュをとって、鼻をかんだ
くよくよ悩んでも仕方が無い。
なんとかしなければならない。
***

癒し~春~


22時
遅めの夕食をとって
風呂に入った

悠は食事の後片付けをしている
季志は、少し眠る、と言っていた

春は湯船に肩までたっぷりとつかりながら
ほっとため息をついた

発作はまだ起こっていない
もしかしたら、もしかしたら、大丈夫だったのかもしれない
そんなわけはないと思いつつ、春はかすかな希望にしがみつく

僕のそういうやり方が間違っていて、
闇虫は快楽を覚えずに、広がっただけなのかもしれない
だったら、……そしたら

寒い空気の中に、湯気が柔らかく流れる

扉がきしっと揺れた
ぼちゃんと、春は湯船に隠れる

「すまん、ちょっと、顔を洗わせてくれ、
汚れた、みたいだ」

悠の声だ
曇りガラスの向こう、
悠のあごに白いものがついているように見える

「季志に言われたんだが、よくわからない
鏡、こっちにあるから」

「ああ……」

春は微笑んで、うなづいた

「僕隠れてるから……、
入ってきていいよ」

そっとタオルで、闇虫が見えないように隠す

「すまん」

がらがらと悠が入ってくる

「洗っていたらはねられた」

「あ」

悠のほほからあごにかけてべったり、泡がついていた
どうやったらそんなにはねるのか
春はおかしくてくすくす笑った

あんまり春を見ないようにしながら
悠は洗面台に向かう
なんだかほんのり赤らんでいるようだ
鏡を見て、ちょっと目をまるくする

「すごいついてるな」

「サンタさんみたい」

ころころと春は笑う

「おかしいか?」

悠が、春の大好きな笑顔で、目配せをした

発作は突然だった
急激に、そこに熱が集まって、闇虫がぎぃぎぃと騒いだ
悠にこすって欲しい、
手を使って、季志にしているみたいに

「はっ」

真っ赤になって、春はそこを押さえた
気づいてないのか、悠が顔を洗いながら
春に話しかける

「さっき、どうしたんだ?」

「……」

(どうしよう……どうしよう)

「元気なかったみたいだが」

ぱっと悠が振り返った
春と目がぱちっとあった
さっと春は目をそらした
悠を襲ってしまいそうだった

余計高ぶって
押さえても、押さえても、そこがずきずきと押し上げる
痛くて、痛くて、みじめだった

「春……?」

悠が近づいて、春を覗き込んだ
春が声を出す

「こっ……こないでっ……」

かすれた声だった
そこに集中していて、力がでない
今こそ自分が嫌になったことは無い
ここから逃げ出したいと願った

「春……」

悠が、そこを覗き込んだ
春は目をつぶって、荒い息を吐いた
悠の吐息や、体の仕草が、全部意識に触れる
抱きしめて、キスをしたかった

ああ、闇虫がばれてしまった、
上辺の意識で、そう考えた

「……可哀想に……」

状況をさっした悠が、
湯船に手を入れて、そこを触った

「………………!!!!!!!!!」

ぎいぃいっと、春が叫ぶかわりに、闇虫が騒いだ
悠の腕に、もっともっと、というように、絡み付く

「春、こっちあがれるか?
もう動けないか?」

「はっはひっ……はひっ」

もう春は、悠の言葉なぞ、聞いていなかった
自分で自分自身を夢中でこすりあげながら、
快楽の波に悶え、飲み込まれていた

闇虫が、うれしそうに蠢いている
頭のすみっこで、それがわかる
悠はどこに行ったのだろう
こんな春にあきれて、軽蔑しきって、行ってしまったに違いない
涙がぽろり、ぽろりと流れた
快楽と、どうしようもないみじめさで

「ううっうう」

「春」

見上げると、上半身の服を脱いだ悠が立っていた
闇虫がぎゃあぎゃあと蠢く、
熱はもう、いやというほど高まって
自分が何を考えているのか、
悠が何をしているのか、分からない

「はっはっ」

「春、ちょっとわるい」

表情を崩さず、軽い調子で悠が言って、
風呂の中の春を、両手で支え上げた

「あっいいっ」

びくん、びくんと春の体が反応する
悠に触られただけで、いってしまいそうだった

「今すぐ、楽にしてやるから……」

ぼおっと、春が悠を見上げると
なんだか悠は、優しい顔をしていた
いつものむすっとした顔なのに、
なんだか優しいような気がした

抱え上げられながら
春は悠の心音を聞く
悠の素肌に、ほほがくっついていて
それを理解できるほど、冷静ではないけれど
なにか暖かいと、思った

そっと、春をタイルの上におろすと、
すぐに悠はそこをしごきはじめた
春の体が、びくびくっと、跳ね上がった

「あああっああうっううっ」

「……」

「はひっああひっひっ」

「……」

春は夢中で気がつかなかったけれど
悶える春の様子を見ながら、悠は切ない目をしていた
愛しさと、苦しさと、悲しさがない交ぜになったような、
そんな目をしていた

悠の手の中で、春のものがびくびくする
悠がぎゅうっと強く握ると、春が涙を流していやいやをするように首を振った
春の闇虫が、悠の手のひらを愛撫するように流れる

春の手が、悠を求めるようにさしだされた
かりりっと、悠がそれをひっかいた

「はひっいいいいっいぐっうううぅ」

どくん、どくんっと、春は弓なりになってそこから欲望を吐き出した
悠の手を染めて、びゅっびゅと流れ出た
春の白い肌が、桃色に染まる
光る汗が、じっとりと浮き出ていた

「……」

悠がシャワーを出して、ぐったりしている春を支えながら、
そこにあてる。
どろどろした欲望が、お湯に乗って流れ落ちる

「……は……ああう」

春のものは、まだ起立したままだった
それこそ、何も終わっていないかのように。
闇虫が騒ぎ、悠の手のひらと流れ落ちるお湯に、
絡み付く。

「春……、まだ、おっきいまんまだ」

「は……
はひ……ご、ごめんなざい……はひ」

春の顔を、涙と鼻水がぐちゃぐちゃにしていく
それを見て、ちゅっと、悠は春のほほを吸った

「泣かなくていいよ、よくなるまで、してあげよう」



それから何十分経っただろう、
悠はそれをずっとしごいていた
もう2回、春は吐き出した
体中にうみのような熱がたまっている
何度吐き出しても、それが冷めない

「あうっううっう」

「春……しゅん」

甘い声で、悠がささやく
その声を聞くたびに、快楽がまた舞い戻る

「春……足、広げて」

「っひっいっご、ごめんなさいっ」

「怒ってるんじゃないよ……、
大丈夫、うん、これぐらい」

言いながら、悠がふとももを撫でる
あまりの快楽に、春は頭がくらくらした
目の奥がちかちかして、
体が言うことを聞かないほど疲れているのに、
まだ、むさぼりたい

「………………!!!!」

止める間も無かった、
悠が、春のそこを口に含んだ
口の中の生暖かい感触と、
蠢く舌に、春は一気に達した

それをごくごくと飲み込んで、少し悠が、咳き込む

「ごめっごめんならいっごめんならいっ」

わけがわからず、春が泣き叫ぶ
くすっと悠が笑った。春の好きなあの顔で。
春の頭を、愛しそうに撫でると、
またそこを舌でもてあそびだした

「あっあああああうっううあああああっ
だめっらめっらめっ
ちんちんっとけちゃうううう」

「しゅん……かあいい……」

「とけるっあはっはあっああいいっとけるっ」

歯で、悠がごしごしとそこをなぶる、
痛みと強い刺激に、
春は意識が遠くなった

また、出した気がする
その瞬間、春の意識はもうそこには
いなかった目が、さめるとベッドの中だった
あの熱はどこにいってしまったのか
冷たいシーツの感触と、さらさらした衣擦れの音
自分の部屋だ

雨が、また一段と強く、降り注いでいるようだ
春はもう一度目を閉じて、呼吸をした
そのほほを、誰かが触った

ばっと起き上がる
悠だった

隣に、ごろんと横になって、春の顔を見上げている

とたんに、自分が何をしたのか、何をしていたのか
思い出して泣きそうになる

「ご、ごめんなさい」

「……」

悠が無言で首を振る
その目を見て、春は気がついた
この人は、こんなに優しい目をしていたのか
ずっと、今まで?
なんだかとろけるような、温かな目だった

「体、大丈夫か?」

その目に似合ったトーンで、悠が聞く
春はいっぱいうなづいた
ほほが真っ赤になっている
恥ずかしくて、消えてしまいそうだった

「闇虫、これからが大変だぞ……」

「……これから……」

「俺も結構調べたんだが、
直す手段とか、ただ一つ……
難しい手段だ。」

ごそごそと、悠が懐を探って
ふっと微笑んだ
やっぱりこの人の微笑みは、あでやかだ
心に水滴が落ちるように、想いが落ちる

「これ……」

悠が出したのは、銀色の水の詰まったカプセルだった
悠が揺らすと、中水がちゃぷんちゃぷんと揺れる

「発作が起きたとき飲め、
小さな発作なら、収まる
淫魔の心、ってやつだ」

聞いたことがある、
かなり高価な薬だ
常任が飲むと、性欲を促進させ、
闇人が飲むと、その快楽を解放させる

淫魔と呼ばれる、魔界の人間が、
愛を奏でるとき、流れ落ちる涙、
それに含まれる感情が豊かであればあるほど、
効力が高い薬となる

「それでも収まらなかったら」

こんな高価なものを、もらっていいのだろうか
躊躇している春の手に、それを無理矢理握らせて、
悠は言う

「俺を呼べ。
今日ぐらいのことなら、してやる」

かああっっと、ほほが熱くなった
目が潤む
悲しいからではなく、
あの時の快楽を思い出して、体が反応したのだ

「いいの……?」

「ああ」

「ごめん」

「あやまるな…」

そっと、悠が起き上がって、春の肩を抱きしめた

「あやまるな……、お前はなんも、悪くないから」

「ん……」

いいこいいこと、悠は春の頭を撫でた
なんだか泣きそうになった
悠があんまり、優しいから
泣きそうだった
***

いつか復讐を


その日も雨だった
カレンダーを見ると、あれから2日ぐらいしか経っていないようだ
だけど春は、あの出来事がなんだか夢のように思えて、
もっと日にちが経っているような錯覚を起こしていた
ポケットの中の、銀色の薬だけが、夢ではないと言っている
2回、発作が起こって、薬を飲んだ
発作は2回とも、あっさり収まった
季志にも闇虫のことを話し、発作のことを言った
彼は

「大変だ」

と言って笑った

ぼんやりと、部屋の中から、
窓にあたる雨を見ていると、
悠がとなりに座った
窓の中の悠は、やっぱり優しい目で、春を見ている

「聞いていいか?」

その唇がひらかれて、深い音で言葉が漏れた
響きが、春は好きだった

「うん、なに?」

春が振り返って、じっと悠を見る
悠は顔には出さなかったが、
このごろの春の変化に戸惑っていた
例えば、こんな風に人の顔をじっと見る癖、
前から春はこんなに……、こんなに色っぽかっただろうか

「闇虫が、どうして憑いたのかとか」

「……うん」

「聞いてよかったら、聞きたい」

「興味?」

興味半分だったら、いやだな、と春は思った
自分はいいけれど、悲しい話をして、
悠がいやがるといやだった

「いや……」

口の半分だけで笑って、悠は首を振った
季志は、ベッドの上で、音楽を聴きながら眠っている
このところ、彼はよく眠る

「理解したい……
おもしろ半分じゃないよ」

「うん……」

くすっと春は笑った
こんなに、毎日笑うようになるなんて、
例えば一年前、春は知っていただろうか、いや、知らなかった
世の中の不幸、全て、背負っている気がした

「父にね、よく殴られたから」

「うん」

「母の、前の夫の子供なんだって、僕
だからかも知れない」

「……うん」

「おわりです」

「……」

難しい顔で、悠は考え込んだ
ふっと、不安が過る、
悠は、こんな話、やっぱり嫌だったのかもしれない

「今も……」

その唇を悲しい想いで見ていると、
悠が言葉を発した

「今、その、父親を、恨んでいるか?」

じっと、悠を見る
その目が、凛々しく光っている。

「いつか、復讐してやる、って思ってる」

「うん……」

「いっとう幸せになって、
いっとう優しくなって、
家族を持って、愛されて、愛して、
いっとう幸せになってやる、って思ってる」

「……」

「復讐、してやるんだ」

悠は微笑んだ、
何もかも、全て包み込むような、
そんな笑みだった

「それが、復讐か」

「うん」

沈黙が落ちた
心地よい、何か、穏やかなものを含んだ沈黙だった
雨の音が、心にしみ込む

「そんなこと、聞かれたの、初めてだ」

「あ、聞いちゃいけなかったか?」

「んーん」

春は悠の手を、そっと握った
悠が驚く。顔には出なかったけれど

「誰かに言いたかった、そういう風に」

ぽろっと、春のほほに、涙が落ちた
悠が慌てた。今度は顔に出た

「ご、ごめん、すまん、泣かないでくれ」

「んーん、違うの、違うの」

「春、すまん、すまん」

あわあわと、悠が手を動かす
だけど春に触ることができなくて、
春は笑ってしまった

「どうしよ……、とまんない」

「春、……しゅん、すまない」

「ん……悠、は、こんな話、
嫌いじゃない?」

涙で途切れながら、たどたどしく春が聞いた
悠はぶんぶんと首を振った

「俺が聞いたんだ、
それに」

「それに……?」

「それに……」

そこからあとは続かない
ずっと、雨が降っていた

ベッドの上で、壁を見ていた季志が、気づかれないようにため息をついた
その目は、嬉しいような、優しいような、そんな光で満ちていて
少しだけ、悲しさがにじんで消えた
***

誰をも好きだから~悠に~


セックスは好きだった
これは季志の話

悠にせめられながら、喘ぎながら、
とぎれとぎれに、季志が言う

「ゆう……しゅん……のこと…っ
すき……だろっ」

「な……?」

動きながら、悠が快楽と疑問の目をした

「おれも……、おまえら……大好き」

「季志……」

ちゅっちゅっと、悠が季志のほほに接吻する

「ゆう……、もう」

俺は抱かなくていい

言おうとして、悠が急に動くから、言えない
季志がなぜ闇虫に憑かれたのか、
なぜ何もしていないのに、こんなにも広がったのか、
そして今、なおかつ浸食されているのか、
季志も、悠も、分からなかった

季志は自分の人生に満足していた
不満があっても、それを幸運に変えることができる自分が好きだったし、
周りにいる人間の、その誰をも愛していた

照れくさくて、絶対に言えないけれど。

闇虫に憑かれるはずがない。
そんな人生だった

それが今、信じられないことに、
彼を浸食する愚鈍な虫のせいで、死に向かっている

「ゆう……っ悠……!!」

「季志っはっ季志っ……」

「しあわせにっっなれっおまえはっ……」

「季志……あっう」

「悠……絶対……」

言葉は闇虫の鳴き声に、かきけされた
悠や、あの悲しい目をした春、
幸せに、なってほしかった
***

誰をも好きだから~春に~

春は、季志の背中を不安そうに見ながら、ラジオのスイッチを切った
また季志が眠ってしまったのかと思ったのだ
でもそれは誤解だった

「あれ、もういいの?」

季志が起き上がって、春に尋ねた
春はあわてて、ラジオをもう一度いれた

「このごろ、季志、よく寝るから……」

「ああ、うん、」

混ざってるんだろうね、と言おうとして、言葉を飲み込んだ
いかんいかん、不安がらせてどうする。
闇虫に憑かれた人間の最後。
それは決まっている。
闇虫の思考が宿り主に混ざり、拒絶を起こして眠ったままになるか、
受け入れて発狂するか

季志はなるならば、眠ったままになろうと決めていた
どうやら幸運にも、それは叶いそうなのだ
遺書も、準備してある

「季志……」

不安そうに、春がつぶやいた、大きな声ではっきり問いかけたら、
恐怖が襲ってくる、というように

「だいじょーぶ、だいじょーぶ、心配ない」

笑って季志は手を振った
その手で、引き戸を開けて、スケッチブックを取り出す

「春に、山を案内してもらわな」

「そうだね」

不安を消すように、ぱっと春が笑った
季志もその顔に微笑みかける

「春の絵は、心がこもっていて
見ていて気持ちがいいよ」

「そうかな」

照れたように、春がもじもじする
ほめられるのに、なれていないのだろう

「このスケッチブック」

ページをめくりながら、季志が言った

「本当は、悠が拾ってきたんだ」

「え……?」

「夜だったっけな」

一年前のバレンタインデー
この屋敷の、いつもの一室。
ラジオを聞きながら、悠を待っていた
あの頃は、季志も動けたし、
闇虫も、すごく小さな、不思議な現象でしかなかった

悠の家はいわゆる成金で、
アパートやマンションを何個か持っており、
この屋敷もそのうちマンションにしようと、買い取ったらしい
おじさんもおばさんもすごく変わった人で、
悠と季志のそういう関係も、笑って許してくれた

『季志ちゃん、そういうことすんだったら、あの屋敷、使っていいよ』

金歯をぱっかぱっかさせて、おじさんは笑った

『にょーぼは許さねーかもしれねーけどよ、
いいんだ、屋敷も人がすまねーと、腐っちまうからな』

『だっておじさん、
そのうち取り壊すんでしょう、あれ』

『それはいわねぇ約束よ』

つるりと頭を撫でて

『まぁ取り壊すったってよ、
季志ちゃんと悠があそこ気に入ったんなら、くれてやってもいいよ
結婚する時な』

『あー結婚』

『そー結婚』

それで笑いあった
懐かしい話だ
思い出していると、怒った顔で、悠が入ってきた
いつも怒った顔をしているけれど、
その日は本当に怒っているようだった

『拾った』

そう言って、丁寧にティッシュでどろを拭いだしたのは、
一冊のスケッチブックだった
見覚えがあった

クラスメイトの春。
かわいい子で、だけど不幸そうな子で、
季志が密かに注目していた男の子
彼の、へたくそな隠し方で大事にしている、スケッチブックだった

それには、踏みにじられたような足跡がついていた

『……
なにがあった?』

『わからん、だけど、そういう噂は聞くから』

虐待されている。
まことしやかに流れる噂。
本当に虐待されているのかは分からないけれど、
春の体には、たまに、否応無しに目に入る痣や傷があった

『そうだね』

『いい絵が描いてある』

中を開いてみせて、悠は怒った

『俺が持っておく』

それ以来、悠は何かにつけ、春を気にしていた
今日は悲しそうだったとか、
今日は嬉しそうだったとか、
馬鹿だから、あいつ、気づいてないんだ

くすっと、季志は笑う。
春が悲しそうだと自分も悲しそうで、
春がちょっとでも笑うと、自分も笑ってる
最初は、多分同情。
でもだんだん、悠はだんだん

「あいつ、馬鹿だから」

ラジオのボリュームを絞りながら、季志が言う
春はおとなしく、その話に耳を傾けている

「怒ったことにも気づかないで、
捨ててあったって、怒ってた」

「そんな器用なこと、できるの」

「うん、馬鹿で器用だから」

くすくすと、季志は笑った
春も微笑む
春は、気づいただろうか、
季志の、半分の寂しさに。
半分の愛しさと、半分の悲しさ
気づいただろうか

「俺は、お前らが好きだよ」

季志が言った
びっくりして、春が季志を見る

「ほんと」

幸せそうに、春が微笑んだ
なんだか優しい笑みだった

「僕も好き」

「うん」

「大好き」

「うんうん」

くすくすと笑い合った
もうすぐ、悲しい時がくる
その時のことを考えて、季志は少し、切なく思った


次の日、春は出かけてくると言って、
朝から外に出て行った
買い出しや何かは、このごろは春がしている
季志をひとりにすることはできないので、
悠は屋敷を離れられない、
そんなこともあって、
違和感無く、季志たちは春を送り出した

「早くよくなれよ」

ギターをつま弾きながら、悠が言った
季志はぼんやりと、窓の外の雲の流れを見ながら、うなづいた

「うん……」

「弟も、おまえとあいたいって」

「うん……」

悠には一人、弟がいる
巻き毛の可愛い子で、
悠が大好きなのか、季志を家に連れて行く度に、
なにかと季志さん、悠ちゃん、とくっついてくる

季志も、そんな悠の弟を気に入っていた
ふと、急に、あいたくてたまらなくなった
この非現実的な出来事を、みんなおしゃかにして、
悠と、悠の弟と、春とみんなで、山に行って、
すごかったね、あれはすごかったね、と笑いあいたい

実際には、もう二度と、悠の弟の笑顔も、見れないのだ

「あの子はすねてなくていい」

「そーか」

「おまえはすねてる」

「すねてねーよ」

くすくすと季志は笑った
ギターの音に、闇虫がきぃきぃないた

夕方まで、春は帰ってこなかった
***




それから三日。
季志は寝てばっかりで、
悠も春も「何か」が迫っているのを感じていた
心の底ではじりじり焦っていたが、
表に出すこともできず、ただ「何か」がこないようにと願っている
そんな日のことだった。

「春、ここにいたのか」

聞いた瞬間、「あいつ」だと分かった
嫌らしい、毒蛇のような濁った声

庭でたき火をしていた春と悠は、声の主に振り返った
春の父親が立っていた、嫌らしい顔をして

止める間も無かった、
春の父は、春の襟首をつかむと、ぐっと持ち上げた

「おまえ、金をどこへやったんだい?
おまえがためていたカネ、あんだろ、
もってんだろ、だせ」

「ごめんな……さい」

春は、ただ謝った
その目は強い意志で輝いていた

「でもあれは僕のお金」

「てめぇの金なんてねぇだろーがっ!!!」

ぐいぐいと、男は春の顔を揺すった
鈍い苦しさに、春が顔をしかめる

「てめぇの親が払ってやったかねだろーが!!
おまえのものなんてなぁ、この世に一つもねぇんだよ!!!」

無言でじっと見ていた悠が、彼の腕をつかんだ
男の動きが止まる

「なっこっこの…」

「落ち着きなさい。
春は何も悪くない」

「悠、ごめん、悠、違うの」

「てめ、なんだ、この」

悠の手を外そうとして、男が春から手を放す
しかし、どんなに抵抗しても、悠の手のひらははずれず
それどころか骨がきしむほど強い力で、男の腕を静止させている

「いっってぇってめっ」

「悠っ悠、やめて、悠がっ」

悠がひどい目にあってしまう
言いかけた春を悠は片手で制した

「知っていますよ、杜さん、いえ、田畑さん。
この間ご離婚が成立なさったそうですね、
お気の毒です」

かあっと、男ー田畑の顔に血が上った
どす黒く、醜く染まる

「春は、あなたの『もの』ではない。
ずっと前からそうだった、
あなたが愚かであれ、春は許そうとしている。
立ち去りなさい。春はここで暮らす。」

目が飛び出るほど、田畑の顔は怒りに満ちていた
じろじろと、悠の顔を上から下まで眺める
嫌らしい視線だった

「てめぇ、ホモか」

かっと、今度は春の顔に血が上った
恥ずかしさとー田畑が一時でも自分の父親であったことの恥ずかしさと、
ひどい言葉で悠をののしったことに対する、怒り

「春のけつでおまんこしてぇってか、
だから春をかばうんだよな、ええ、ええ、ご高説はいただきましたよ
このきったねぇげすやろうが」

「げすはあんただろ!!!」

思わず春は叫んでいた
叫びだしたら止まらなかった
顔が真っ赤になって、耳たぶがじんじんした

「ぼ、僕はいいけど、僕の友達を傷つけたら……!!!」

「こんなやつに傷ついたり、しないよ、春」

くすっと、悠が笑った
綺麗な笑みだった。

「お引き取り願えますか?田畑さん」

じろじろと田畑が悠を見る
それすらも、春は嫌悪を感じた
田畑の視線なんぞで、悠をけがしたくなかった

「あーお取り込み中すまねぇな」

急に声がした、つるりとはげあがったおやじが、
ひょいひょいっと、面白い動きで、悠と田畑の間に割り込んでくる

「……!!!親父……!!」

「……神崎さん!!」

田畑と悠が同時に叫んだ
え!?という顔で、田畑が悠を見る

「あ、な、なんだ、神崎さんのガキ……いや、ご子息でしたか、
いやいや、俺のバカ息子がご子息になんかきったねぇことをしでかしたみたいで
注意していただけなんですよ、いや」

誰も聞いていないのに、田畑はべらべらとしゃべる

「悠、たまにはかえれーな、
とうちゃん寂しい」

無視して、神崎氏が悠に言った。

「寂しいじゃねーよ、なんでこんなとこにいんだよ」

「この人が案内してくれ、いうて来たから、とーちゃん、案内してきたんだよ、
仕事仕事、なぁ、カキ様」

見ると、おやじの後ろには、
プラチナの髪をした、強い目の女性が立っていた
カキ/チッチナ。一万年に一人と誉れ高い、仙術士。
春が、はっとなった。

「こんにちは、こっちが、春君?」

かああっと、別の意味で、春が真っ赤になる

「はい……」

「こっちが?えっと、春君のお父さん?」

「へ、へぇ」

妙な展開に、田畑は目を白黒させている

「ちょうど良かった。
中央警察の人が来てるよ
あんたに話が聞きたいって」

「中央警察?」

さっと田畑が青ざめた
悠の手を振り切ろうとする

「こんにちは」

カキの後ろに隠れていた、背の高いハンサムな男が一礼をした

「先日、ご離婚された奥様から、
いろいろお話をお伺いいたしました、
春君を虐待されていたそうで。
ご同行願えますか?」

「………………!!!」

「ささ」

悠が手を放した
代わって、ハンサムな男が、田畑の腕を握る
田畑はもうぐったりと力が抜けて、真っ青な顔で
男のなすがままになった

停まっていたパトカーに田畑をのせると、
男はウィンクをして、手を振った

パトカーが走り去るまで、春はぽかんと、それを見ていた
悠がそんな春の肩を抱いて、ほっぺにちゅっとキスをした

「わっ」

「ぼんやりしてるから」

「してるから……って、だめ、だめだよ」

春が真っ赤になる

「よかったな」

悠が優しく、つぶやいた
その顔をじっと見ていたら、だんだん目尻が熱くなってきた
泣きそうになって、口を真一文字に結ぶ

「あー見せつけんな、悠、
季志ちゃんはどーしたんだよ」

「季志は部屋で寝てるよ」

「そーじゃなくてよ」

ちっまぁいいや、とおやじさんが言った

「たたけばほこりのでる身だろ、
数年はぶちこまれるはずだ、ま、安心するんだね、春君」

くすっとカキが笑った
そうだった、彼女はなんのために、ここに来たのだろう?

無表情の悠の目を見て、
それでもその疑問を感じ取ったのか、カキが微笑んだ

「春君に呼ばれてね、
闇虫に憑かれている子がいるんだって?」

夕焼けがくる、少し前
たき火は燃え尽きようとしていた
***

邪念~カキ~


カキは仙術の使い手。
悠は知らなかったけれど、
その道ではかなり有名な話に、
カキが闇病を治す、という噂があったのだ。

闇虫に侵されてから、
カキの噂を耳にしていた春は、
先日、自分のために、いつか、と思って貯めていたお金を家から持ち出して、
その金額をしたためた手紙をカキに書いた

曰く、
僕の友達が、闇病で、死にかけています
この金額で足りなければ、言ってください
どんなに高くても、お支払いいたします、
どうぞ、僕の友達を助けてください

春は、借金してでも、カキを呼んで、季志を助けるつもりでいた

季志の闇虫をゆっくりと見ていたカキが、顔を上げた
季志が不安そうに、カキを見る
春は緊張した顔で、カキの口が開くのを待った

悠と神崎氏も、春の隣で、固唾をのんで見守っている

「これは邪念だね」

「じゃ……ねん?」

意外なことを言われて、春が口を開ける

「誰かの邪念。
病気じゃないよ。春君のは病気だけど。
すぐなおるよ、こつがいるけど。」

「邪念って……なんですか?」

悠が不思議そうに聞く。
単語の意味は分かるけれど、それがどういう作用を及ぼして
こんなことになるのだろうか

「んー、例えばね、
いーさんとしーさんがいて、
しーさんがいーさんのことを
こうなってしまえばいい、
いい、いい、いい、って考えたとき、
しーさんが少し魔力が強くて、
想念の力が強いとき、
いーさんが本当にそうなってしまう、とか
そういうやつと似てるね」

「そんな、怖いこと、あるの……?」

「普通はない。だから珍しい」

ぱちん、とカキは手を叩いた

「季志君?
おぼえ、ある?」

「おぼえ……」

季志が考え込む

「おぼえー」

「なんかね、恋慕っぽい。横恋慕?
すごい強い恋心。
相手多分、気が狂うほどあんたが好きなんだよ、
でね、あんたが振り向いてくれたら、って
悲しくて、悲しくて、辛い感情が漂ってる。
あんたに向かう想いが強すぎて、
闇虫が、相手に行くかわりにこっちに来ちゃった、って感じ」

「……あーーーーーーーー」

急に季志が大声を出した
びっくりして、春が目をぱち、ぱち、としばたかせる

「わかった、あの子だ」

「ふったりした相手?」

「俺んとこ、
季志さん、季志さんってくっついてた子がいるんだ
季志さん、付き合ってる人いる?って聞かれて
悠のこと言ったら黙っちゃって、……」

「誰?」

悠が、そんなやついたのかよというように聞いた

「教えない。
だけどたぶん、あの子だとおもう」

うんうんと、季志がうなづく

「あのね、これね、思念返しすればなおるんだけど、
そうすると、相手の方にこれがいくんだよね、
季志君、そうなっていい?」

「いやだ」

きっぱりと、季志が言った

「そっかそっか」

嬉しそうに、カキが微笑んだ

「じゃ、ちょっと辛いけど、ひっぺがすわ。
死にそうに辛いけど、我慢してね
はい、他の人は出てって」

「し、死にそうに辛いの?」

春が心配そうに聞く

「心臓つかみ出すからね。
血を入れ替えないといけないから。
成功率はゴブゴブ。
臨死体験する人もおる」

「ええ」

「いいよ、春」

何かを決意したような、
さっぱりした笑顔で、季志が言った

「俺、死ぬぐらいなら五分五分にかける」

「……」

「思念返しもしたくない。
だったら、その方がいい」

にやーーーーーっと、カキが笑った

「いい子だにゃー、季志ちゃん」

「や、やめてください」

季志が耳まで赤くなる

「そのかわり、成功させてください」

「おげおげ。まかせとけ」



空は星が綺麗だった

季志の、悲鳴が何度もあがった
部屋に入ろうとするたび、悠が止めた
悠と神崎氏が止めた。

耳を塞ぎたかった
塞ぎたくなかった、
季志の悲鳴など、聞きたくなかった
だけど、季志が苦しんでいるのならば、それを全部見なければ、
いけない気がした

震えながら、春はじっと扉を見ていた
寒かった

悠も、そばで息をひそめているのを知っていたもう、何十分沈黙が覆っているだろう

自分の息づかいと、悠の息づかいと、
神崎氏のうろつく音だけが、聞こえている

早く、

と春は願った

早く、終わりに、して



突然、音がした
ぞぞーーーーっと言う音だった
春のおなかの闇虫が、ぎぃぎぃと騒ぐ
何かが起こっているのだ。中で。
ずざざざざ、っと、何かが蠢く音。
呪文も聞こえた
するどい、カキの声。

また、沈黙

がたんっっと、ドアが開いた。
その姿を見て、春は悲鳴をあげそうになった
真っ赤な血に濡れた両手をぶらさげて、カキが立っていた

「終わったよ」

凄惨な様子のくせに、なんともほがらかに、カキは笑った
***

季志の諭し

雪が降っていた
あれから、もう三日も経つ。
季志はただ、生きていることだけが救いのように、
こんこんと眠り続けて、
今朝、やっと起きた
その間、カキもこの屋敷で暮らしていた

成功したんだけど、体力使ったからね、
そう言って、笑うカキを、信用するしか無かった
長かった、三日間。

季志が目を覚ましたとき、あまりの喜びで、
春は季志を抱きしめて、おんおん泣いた
今までのことが全部、よみがえって、
おんおん、おんおん、おんおん泣いた
季志は少し恥ずかしそうに、春を抱きしめかえした

それを見ていた悠も、ちょっと泣いていたようだった
春が振り返ったとき、目をこすっていたから

カキと悠が、季志の体力を取り戻すために、
精力のつくものを買ってくる、と言って出て行った後、
季志とふたりっきりで、ぼんやりと、闇虫のことを話した

闇虫を、季志に呼んだ、「彼」のことも、ぽつり、ぽつりと話した

「すっげーかわいい子」

「悠がいるっていったの?」

「うん、悠とつきあってるよーって笑って言ったら、
なんかぎょっとしたカオして、その後涙ぐんでた」

「ふうん……」

「熱っぽい子
多分それでだよな」

「どうするの?」

「カキに言われた。
このままじゃ、また繰り返すだけだって。
だから、きっぱり決着をつけなさいって」

「ふうん」

「……、ちょっと興味ある。」

「興味あるの?」

「うん、どしよっかなー」

ぽーんと、ベッドに季志が寝転んだ
くすくすと、春は笑う

温かな沈黙が、部屋を覆った
何もかも、解決した、安堵、
開放感、それと、なんだかわき上がってくる愛しさに、
春は顔がどうしようもなくほころんでしまって、
困っていた

「……春」

季志が急に、まじめな声を出した
うん?と春が顔を上げる

「春、お前、このまま、帰る気だろう」

「え?」

ぽかんと、春の思考が停止する

「悠に何も言わないで帰る気だろう」

そういうことか
かあっと、耳たぶが熱くなった

「だって……、悠は、季志の」

「お前、それは失礼よ?
俺に対しても、悠に対してもさ」

「……」

「好きなら、ちゃんと言ってからいけよ
そうしないと、許さないぞ」

「でも」

じっと、手が汗ばむ
どうしていいか分からない
悠と季志はお似合いだ、と春は思う
気がついたら、心の中、悠でいっぱいになっていた
でもそれは、

「いけない感情だ、とか思ってんじゃないだろーな」

「!!!」

図星をさされて、春は焦った

「言って帰れよ、
失恋しても、何しても、
俺は、気にしないからさ」

「……」

「お前も気にしなきゃいい。
ずっと友達でいたい。
それじゃだめなのか?」

「……んーん」

「じゃ、言えよ」

「うん……季志」

「なんだ」

「季志の馬鹿」

「なんだよー」

「簡単に言える訳無いじゃん」

「言えるさ、勇気が足りないだけ」

「うん、言えるね」

「どっちなんだよ」

「僕が馬鹿だってこと」

「お前、思考停止してるだろ」

「うん」

仕方なく、季志は笑った
どうしよーもねーな、って、笑った
春もつられて笑った
雪が、降っていた
***

春の告白

夕方から小雨が降り続いている
このごろ天気は崩れやすくて、
雪だったり、雨だったり。

風に吹かれて舞うような雨で
雲は少ししか流れていない
冬の一日が、終わろうとしている
木の葉がかさかさ揺れた
もうすぐ、「ことし」が終わって
「らいねん」がくる

枯れ草に足跡が、ぽつりぽつりとつくのを意識しながら
春はすぐ後ろを歩く、
悠の吐息を感じていた

初日の出を見よう、と訪ねて来たのは悠
今から行ったら、凄く待つよ、と答えたけれど
すぐに支度をはじめてしまって、わくわくしながら玄関に出たのは春

あれから、あの、闇虫のことから、いったい何日経っただろう
春はあの屋敷を出て、自分の家も出て、神崎氏の所有しているアパートを一つ借りた
悠と季志は、時折二人で遊びにきた
電話もくれた
春は前々からこっそり通っていたサイダー工場でアルバイトをしながら
生活費を作っていて
来年は卒業だから、そのまま就職しないか、と誘われている
悠と季志は大学に推薦で合格が決まっていたらしい
そのまま、そこに進む、と言っていた

カキはお金を半分受け取って、半分春に返した
とっときなさい、これからが大変だから
そう言って、笑って去っていった
そのかわり、と、春のスケッチブックを指して
「これを売ってくれ」
最初は断った。
こんなへたくそなの、だめ、だめ、だめ、と言ったけど
カキはどうしても、と言って譲らない
結局春は折れて、渡してしまった
カキは半分受け取った報酬の倍の値段を春に払った
春は大変に拒否したが、カキがいい加減にしなさいと、なぜか怒りだしたので、
もらってしまった

そのお金は、アパートの頭金にした

春の闇虫は、まだおなかに巣を食っている
カキに、治せないのか、と聞いたら、
闇虫がよほど体にまわらないと、
(それこそあの時の季志みたいにまわらないと、)
引きはがすことはできない、と言われた
辛くなったら悠に電話して、「処理」してもらった
それだけ、心にあとがついて、すまなさが残る

山にも行った、今、横切っている春の大好きな山
季志と、悠と、悠の弟と、春の四人で行った
次にはそこに悠の両親も来て、みんなで行った
一人でも、何度も行った
山はいつも、穏やかな顔をして、春を迎えてくれた
クリスマスに、悠が色鉛筆を、季志がスケッチブックを買ってくれて、
だから、春はまた、絵を描き始めた

夜の山は、舗装されているとはいえ、危険だ。
だから、登るのはやめて、近くにある小高い野原で日の出を待つことにした

季志もいるのかと思ったら、悠しかいなかった
季志は、
「よんどころない事情」があって
「違う人と過ごしている」らしい

野原につくと、夜光花がふわふわとゆれていた
夜露がその光に照らされて
星屑を絨毯にばらまいたような、
一面、きめ細やかな輝きで満ちていた

「……」

春は息をのんで、その光景に見とれた
悠が後ろで同じように見とれているのが分かった

闇の中で、ひときわ大きなものが転がっているのが見えた
備え付けられている、木でできた椅子だ

「座れるかな」

春が人差し指で指して、言う
悠がうなづいた
やっぱりむすっとした顔だった
おかしかった



しばらく、星座を数えながら、持ってきた温かいお茶を飲んで過ごした

「あれがオプロス座、ミミンガ鳥の形してるだろ」

悠は博識で、春の知らない星座の形を教えてくれる
嬉しくて、春ははしゃいでいた

「すごいね、すごいね、赤いのが目?
ね、ね
ミミンガ鳥って、本当は鳥じゃないんでしょ?」

「うん、なんか思念の固まりらしいけど、
詳しくは分かってないらしい」

「お茶飲む?」

「うん」

ちゃぽちゃぽとつぐと、湯気がふわあっとわいて
あたりにお茶のにおいが立ちこめる
湿った冷たさの中で、たった一つの救いのように

「悠、聞いていい?」

「うん?」

「セフレってなに?」

ぶうっと、悠がお茶を吹き出した
げほっげほっと、咳き込む
その背中を撫でて、春は疑問符がいっぱい頭に散らばった

「なんで?なんか変なことなの?」

「あ、あんまりくちにしないほーがいい」

「悠と季志はセフレだって、季志が……」

「……」

「悠?」

「あとで、なぐっとく」

夜の中で、よく見えないけれど、悠は真っ赤になっているらしい

「なんかHな言葉なの?」

悠がじっと、春を見た
そっと顔を引き寄せて、耳打ちする
今度は春が真っ赤になった

「あ、そ、そう」

「うん」

「う」

一生懸命、春はお茶を飲んだ
少し、やけどしてしまった

「あち…」

「平気か?」

「ん……」

しばしの沈黙
星の瞬きと
湯気の揺らぎが、音を覆ってる

「……、もう、セフレじゃないけどな」

ぽつりと、悠が言った

「へ?」

答えて、春の頭が音を立てて停止する

「好きな人できたんだって」

「……季志、すきなひと……」

「春、好きな人、いるか?」

ぷるぷるっと、春は頭を振った
すっきりさせたかった
落ち着け、今はぼんやりしている時じゃない

「僕、……いる……うん……いっぱい好きな人……」

「ふうん」

無表情なのが、もっと無表情になった
悠は空を見上げてる
目が、ちらちらと悲しげに揺らめいている

「ずるいんだ、」

「何が」

「自分から、言えないんだ、好きだって
嫌われたくないから」

「好きだって言ったら、嫌われるのか」

「終わりにしたくなくて
ずっと、このままでいたくて……
怖いから……」

「誰が好きなんだ?」

唐突に、悠が春を見た
そのまっすぐな視線に、春は微笑んだ
愛しそうに。
心はもう、決心していた
言わなければいけないこと。

「悠」

「うん?」

「呼びかけた訳じゃないよ」

悠が、じっと、春を見ている
春は真っ赤になって、だけど、悠の視線をとらえて、返した
先に、悠が視線を外した

「ああ、そう」

口元がにやにや笑ってる

「そうなんだ」

「うん……」

星の音があるとするなら、どんな音なのだろう
光は、かすかに揺らめき、瞬き、
一定の固さを持つ月よりも、頼りなげだった

「俺も……」

「…」

「隣にいる人が好きだな」

「どっちの隣」

どきどきした
心臓が、痛いぐらいにどきどきした
涙が、ちょっとにじんだ

「こっち」

悠が、春の手のひらを握って、上下に動かした
もう片方の手で持っているお茶が音を立てて揺れた

「春、つきあおう」

「……」

「毎日でもあいたい」

「……」

「なくな」

「だって」

ぬぐってもぬぐっても、じわじわ滲みだす涙を手で隠しながら
春はしゃっくりをあげた

「しあわせで」

「うん」

悠が春を引き寄せる
胸に頭を抱いて、さらさら、ゆっくりと髪をなぜる
悠の胸は温かかった

「どうしていいか…っ
わからないっ」

「うん……」

悠は春の頭にくちづけをした
温められた髪が、さらさら流れて
悠のぬくもりを感じながら、春は、胸の中がいっぱいになって、
涙があふれるのをどうしても止められなかった

悠の心音が、春の耳に届く
とく、とく、とくっととろけるような音
春は悠の胸に接吻した
悠がその顔をそっと支えて
唇に唇を重ね合わせた

柔らかな感触が落ちる
月が、それを見ていた
日の出まで、まだ時間がある

どんなにどんなに暗い道を、歩いていても、
いつかきっと光が見えるに違いない
これからきっと、何度も何度も、苦難は襲い来る
それでも

この幸せを、胸に残して、歩こう
歩こう

この夜のように

悠の胸の中で、ふと光を感じた
悠と二人で、快楽をむさぼっていたけだるい体
顔を少しずらして、悠の腕の隙間から、空を見る
日の出だ

悠が、動いた春の耳を追って、唇をつけた

「あけましておめでとう」

耳元でささやいて、舌に食む

「おめでとう」

春は微笑んだ。
幸せに満ちた、全てを抱きしめた微笑みだった。


***

7年後

「あれから7年かー」

悠がぽつりとつぶやく。
くすくすと、春が笑った
悠の言い方がおかしいと言う

「なにがさ」

最近富みに笑顔が増えて来た悠が、
目元、口元を緩めながら聞いた

悠の家は豪邸だった
春には豪邸に見えた
今日は春の晴れ舞台
悠の両親に、結婚の挨拶に来たのだ

7年。
めまぐるしく、時は過ぎた
あの後カキが来て、春の絵を気に入っている人がいるから、とか
変な話をはじめて、トントン拍子に呆然としている間に
春は画家になっていた
大して売れもせず、批判も来て、最初は苦しかったけれど、
だんだん固定のファンがついて、描けば少しはお金が入るようになった
デッサンなど、一から勉強し直して、
今でもそれを続けている。絵を描くことは苦しく、楽しかった
悠は実家の後をついで、マンション経営などをしている
管理が大変、とこぼしていた
季志は大学院に進んで、その後医者になった
この小さな町の腕のいい医者として、今は評判になっている

門の前で、立ち止まって、
悠に姿を確認してもらう

「かわいいかわいい」

よく見もせずに、悠は門を開けようとする

「もー!!!」

怒って春は、悠の腕をぱしぱしたたいた
そんな彼らに、不意に声をかけるものがあった

「悠、春!!」

「!」

「季志……!!」

驚いて、春が一歩近づいた

「なんでここに……?」

悠と春、7年経った今も
季志と交流は続いている
先日も会って、結婚する、という話をしたばかりだった

「俺も結婚するからさ」

「はあ?」

悠が眉をあげる。

「誰と」

「魁ちゃんと」

「!!!」

悠が目をまん丸くさせた

「そりゃ俺の弟じゃないか」

「うん」

季志がびりりりりと呼び鈴を鳴らす
はーい、という可愛い声が家の中から響いて
とてとてと誰かが歩いてくる音がした

悠の弟、魁は春も知っている、
最初は焼きもちみたいなのを焼かれたが、
話が合うので、だんだん仲良くなった、今では春も、
魁のことを可愛い自分の弟のように思っている
背が低いけれど、端正な面立ちは悠と似ていて、
冷たそうになる顔の割には、可愛いと思わせる子で、
上目遣いにものを頼まれたら断れそうにないような
そんな子だった

「季志ちゃん、来た?」

ひょこっと、嬉しそうな顔をして、魁が顔を出した
その顔に、満面の笑みで季志が答える

「来たよー、魁ちゃんさらいに来たよ」

「おとーさんかーさん待ってる、
おにーちゃんと春ちゃんもきたの?
はいってはいって」

「魁……?」

呆然とした顔のまま、悠が魁に尋ねた

「いつから季志とつきあってるんだ?」

「?
いつからだっけ」

「7年前から」

あっさり季志が言って、門をくぐった
呆然としたまま、つられて悠が門をくぐる
春も慌ててその後を追った

今年初めての、雪が降りそうな気配だった
そう言えば、明日は、季志と、悠と、あの屋敷に初めて会った日
思考が停止したまま、ふと、思って
春は空を見上げた

どんよりした雲の合間に、金色の光が射していた

闇虫を治す手段はただ一つ。
幸せになること。自分をとらえていた、悩みを消すこと。

春のおなかの傷は、もう、癒えている……
2004-01-17 838:59:59