春の待ち人


はじまり

ゆきのひに、すてられたカーヤ
まちの、きらわれもの
だれもがそのなを、さげずんでよぶ

:

クリスマスの日
ちらちらと降り始めた雪に、カーヤは寒そうに肩をすくめた
早く家に帰ろう、
家に帰っても、ひとりぼっちだけど。

なんとか買い求めた今日の夕飯を、確かめるように、
カーヤは胸に抱きしめる
このごろは、街での買い物が、難しくなってきている
カーヤの悪名が、だんだん浸透していくように。

カーヤの大事な人の顔が、一瞬脳裏に浮かぶ
それと、「あの人」
カーヤの初恋の人、
この雪の日、去年までは三人で過ごしていた
彼らは今、何をしているのだろうか

舞い散る雪をじっと見つめて、
カーヤは去来した寂しさに、唇を噛み締めた
彼らが、幸せでいるなら、
俺はどんな境遇に陥ってもいい

その目の先を、

「あの人」が、

険しい顔をしながら、
街を早足で行過ぎていった


カーヤはとっさに建物の影に隠れた。
こみ上げて来た想いに、
目頭がじんじんする

少年、少女達が、あの人の周りに集まり、
施しを願う。
そうだ、いつも、あの人の周りには人が集う
あの頃からそうだった。
その時ばかりは笑みを浮かべて、あの人が応じる。
カーヤの目の前で、あの人は彼らにかすかに接吻をした
カーヤはぎょっとなった
接吻、カーヤは一度もされたことがない
ずっとしたいと願っていたものだ

あの人は、
カーヤを捨て、
カーヤの大事な人を牢獄にいれた
それからずっと、カーヤを憎んでいる。

見たくないのに、目があの人の動きを追っていく
あの人が少年を抱きしめて、ほおずりした
精一杯愛しそうに

カーヤは逃げ出した。
荷物が音を立てた、
吐息が、白く染まる。



家に帰ってからも、
あの人の優しげな微笑みが消えなかった
カーヤもあんな風に、愛されてみたい
もう一度、もう一度だけでいい。
あの人に。今は牢獄にいる、カーヤの大事な人に。

何度か部屋を行き来し、カーヤは悩み、
窓の外を雪が積もっていく

その雪が夕日に照らされ、ゆっくり闇に染まる頃、
やっとカーヤは電話を手にした
前から、かけよう、かけようと思っていたところがある
やっと決心することができた

色人、売夫なら、カーヤをあんな風に、愛してくれるかもしれない

台所に置かれた食材が、少しの音を立てて、崩れた

***

あい

呼んだはいいけど、どうしていいかわからなかった
カーヤはベッドの上でもじもじと指を動かし、
男の行動を待った

男はカーヤを一目見たとたん、
眉をぴくっとうごかして、嫌悪の顔になった
それにはなれているので、気にはならなかったけれど、
男がいつまで経っても動かないし、コートも脱がないので
カーヤはだんだん焦ってきた

「どう、すればいんだ?」
舌足らずの口調で、手を見ながらカーヤが聞いた
男は嫌悪を隠さないで
「すきにしていいですよ、
どうしてほしいですか」
と淡々とつぶやいた
カーヤはドキドキした
本当に好きにしていいのだろうか?
やりたいことなら、無数にある
「じゃ……、ここに、服ぬいでねろ」

ベッドの上、
男の横にカーヤは寝転んで、
その裸を見て、つばを飲み込んだ
男の眉が、いっそ嫌悪でしかめられる

男の名前はフォル・フォーというらしい

そっとカーヤは、フォーの胸に手を置いた
心音が響く
カーヤより、少し高い感じだ
「へへ……」
顔が真っ赤になるのが分かる
カーヤは興奮していた
自分自身が起立して、
痛いほど高ぶっている

カーヤはフォーの乳首をつまんだ
フォーがぴくっと動く
嬉しくなって、何度もつまむ
でもその先は、どうしていいか分からない
自分のものをなんとかすればいいのは分かるのだけど
なんとかって……どういう風に?
「はっ……は」
カーヤはたまらず、フォーの乳首に口をはわせた
ちゅっちゅっちゅっと吸う
カーヤは夢中になっていたので分からなかったけど
フォーの顔は軽蔑で満ちあふれている

ちゅぱっちゅぱっと吸うたびに、
カーヤはどんどん高まっていった
先走った液が、自分から出ているのが分かった
目は陶酔で潤み、よだれでフォーの胸が汚れていった
あの人と、彼らはなんの関係もないから
こんな風なことは知らないに違いない
あの人と俺は他人だけど、
俺はあの人は昔、俺を愛してくれて、だからできるんだ、こんなことが
夢中になったカーヤはそんなようなことを考えていた
その考えが、余計にカーヤを熱くさせた

「はあ……あは……あは」
歓喜のあまり、半笑いになりながら、
カーヤはフォーの顔に自分の顔をよせた

フォーがぎょっとして、気持ち悪そうにカーヤを見返す

「はっ……はっ……たまん……ねぇ」
カーヤはフォーの唇に、接吻をした
へたくそな、歯のあたる接吻だった
カーヤは接吻なんか、初めてだったから

フォーが逃げる、
カーヤはそれを押さえつけて、追いかけようとした
がりりっと鋭い痛みが走って、唇から鉄の味が広がった
フォーが唇をかんだのだ
「ああっあうっああううううううっうっう」
瞬間、カーヤはいっていた
ズボンの中にどくっどくっと吐き出した
今までに無い恍惚感がカーヤの全身を支配した
「ふっうふううっうっううっ」
震えながら、最後までだしつくすと、
カーヤはどっと汗をかいて倒れた

フォーが起き上がる

「じゃ」
冷酷に言い放って、
立ち去ろうとする
「ああ、あ、ああ、
か、かね」
快楽の波に、どもりながらカーヤは言って
戸棚の上の用意してあった札束を指した
「どうも」
フォーは首を下げて、
札束をつかむと、振り返らずに扉に向かった
「ま、また呼ぶから」
フォーは答えずに去っていった

これがセックスか、愛のあかしか
カーヤは嬉しくて、微笑みながら、汚れたズボンを脱ぎ始めた
いつか、あの人としてみたかった、行為
もう、どんなに願っても叶わない、夢
まだ、俺を愛してくれる人がいる、

ひとりぼっちじゃない


そのことが、カーヤにはたまらなく嬉しく思えた

***

こいびと

外で待ち合わせ、と言っていた
フォーは不安を感じながら、街路でカーヤを待っていた
5分前。

街中でなど、本当は待ち合わせたくなかった。
カーヤは今や街のお尋ね者だ
自分がカーヤと頻繁に会っていることを知られたら、
カーヤを捨てた「あの人」が黙っていないだろう

帰ろうか、どうしようか悩んでいると、
カーヤがあっちからかけてきた
白いオーバーがはためいている、
ほほが上気して、嬉しそうに輝いている。

「ごめん、待ったか」
「……、外で何をするつもりだ?」
不機嫌に、フォーが聞く。
「あ、い、いや、もうすぐ」
ごくっとカーヤはつばを飲み込んだ
「もうすぐ、来るから」

カーヤには、一つの企みがある、このごろふと思いついて、
放れなくなった考え事。
カーヤの好きなあの人、あの人に、
自分もこういう風に愛されているのだと思わせたい
カーヤはまだ愛される価値がある、と。

なんとかしたかった、あの人が何を誤解しているのか分からない
いつかその誤解を解きたい、
カーヤの大事な人、カーヤの父、彼が、あの人を傷つける訳は無いのだ、
牢獄になど、入れられる理由が無いのだ、
カーヤはなぜ、父が投獄されたのか、その理由をしらない
自分が捨てられた日、カーヤは途方にくれながら、
こんな、ばかみたいなこと、すぐに終わるに違いない、
きっといつか、また三人で暮らせる、とそう思っていた
だけど何か月経っても、この不幸は終わりそうにない
どうすればいいのか、考えれば考えるほど、
カーヤには分からなくなっていって
もうなんにもすることができなくなった

カーヤを捨てたことが間違いだったと、教えたい
だから、またみんなで暮らそうと。
そこまで考えた訳ではないけれど、
どうにも袋小路にはまっていたカーヤは、
ただ必死に、感情に突き動かされて、
フォーをこの時間に呼んだのだ

あれから、カーヤは何回もフォーを呼びだしていた。
フォーを呼ぶたびに、胸に接吻をして自分だけいった
それが正しい「セックス」なのか、カーヤは分からない
ただ、フォーがそばにいるととても気持ちがいい
とても安らぐ、カーヤも「愛されて」いるのだ
お金で買った愛だけれど。
それでも良かった。
カーヤはフォーとの愛情の行き来と、昔の愛情の行き来を重ねて、
数ヶ月もなかった幸福感に満ちていた。

「こっち……」
カーヤがフォーの腕に手を回す
腕を組む、などという行為は知らないカーヤだったけれど
フォーのぬくもりを求めて自然にそうしていた
フォーが顔をしかめてその手を振り払う

「マンションに行くならさっさと行きませんか?
誰かに見られたりしたらやっかいだ」
「……なんで?」
「なんでって……」
フォーは絶句する
カーヤとなんて、歩いていることを知られたら、
どういうことになるのか、カーヤは分かっていないのか。

「あ、来た」
ちょうど奥まったところにカーヤとフォーはいる
その真っ正面の路地を、
背の高いハンサムな男が、この世の咎を全て背負ったような顔をして、歩き去っていくのが見えた
彼は知っている。ルシュ・エデン
町の富豪。カーヤを捨てた、その人。
嫌な予感がして、フォーは顔が青ざめるのを感じた。
あ、来た?
カーヤは何を考えているのだ、なにを
「フォー、いこう、ほら」
カーヤは胸がドキドキするのを感じた
あの人はフォーとカーヤを見て、なんて言うだろう
まるで昔みたいだ、と思うかもしれない
それで、しっぱいした、と思うのだ
昔みたいにみんなで暮らしたい、カーヤを呼び戻して、父さんを牢からだして、と
そしたら、カーヤは、カーヤは
「何をする気だ、カーヤ?」
つかんだ手のひらを、もう一度フォーが振り払う
邪険にされているのに、カーヤの心臓はひときわ跳ね上がって、体に喜びが巡った
フォーが「カーヤ」と呼んでくれた
もう何ヶ月も、名前で呼ばれることなんかなかった
フォー。

「フォー……、あの、あのな」
もういっぺん、つばを飲み込む
嬉しくて、嬉しくて、
なんだか泣きそうだった

「パパ……あの人に、
フォーのこと紹介するの」
「紹介……?」
「うん…、そしてね、
俺も恋人ができましたって…」
「じょうだんじゃないっ」
フォーが大きな声を出した
カーヤがぎょっとしてフォーを見る

「お前とそういうことをするだけでも鳥肌が立つのに、
何が悲しくて、恋人なんて言われなきゃならないんだっ
やめろ、不愉快だっ」
「フォ、フォー……ご、ごめん」
カーヤはおろおろと謝った
鳥肌?ではフォーはカーヤとセックスするのがいやだったのか
知らなかった、分からなかった
ずっと会ってくれたから、てっきりカーヤを好きになってくれたんだと

違う。
カーヤはぬくもりに慣れてなかった
だから勝手に勘違いしてしまったのだ
あまりに、フォーのぬくもりが暖かくて、
愛されていると勘違いしてしまったのだ
「ご、ごめん」
自分の過ちに気づいて、カーヤが涙ぐむ

ちっ、と、フォーが舌打ちした
「お前が、あの人に捨てられたのも、分かる気がするよ」
「…………!!!」
「マンションに行くなら行きますよ、
仕事からな。
ただ、恋人なんて思わないでくれ、
俺とあんたはただの他人だ」
「…………」

カーヤは胸のところをぎゅっと握った
痛みでつぶれそうだった
フォー、
フォーのあの優しいぬくもり、肌の味
フォーの声が、少し「あの人」と似ていること、
どれも、好きだった、気に入っていた

「ごめんなさい……」
「どうするんですか?
マンションに行きますか?」
「きょ、きょうは、やめとく……」
涙と震えを隠しながら、カーヤはつぶやいた
「おなか痛いから」
「そうですか、では」
簡素にそう言って、フォーはさっさと去っていった
その後ろ姿を、カーヤは黙ってみていた。
ただ黙って。
***

おうせ

かつん、かつんと
牢獄の下、音の良くとおる場所で、「あいつ」が来ることを知る
硬く迷いのある足音は、あいつしかいない

カデ・タナは瞑っていた目をそおっと開いて、
飛び込んでくる灰色の天井をじっと見つめた

「あのこと」があったあの日から、
この寒いベッドの上で、幾度夜を過ごしただろう
いつも、胸には不快な感情が渦巻いている
心配と、不安と、悲しみ

「カデ」
あいつの声が落ちる
透き通った声だ、悲しみをよくしみ込ませる
「お前の息子が、どんな生活をしているか、聞かせてほしいか?」
来た早々、
精一杯意地悪いように、あいつは言う。
そのことを話せば、あいつ自身が傷つくというのに
「聞かせてほしいね」
しかしそれに対するカデの答えはいつも同じ
カーヤ、あの可愛いおばかさんが、どこで何をしているのか
例え「あいつ」が傷つくとしても、聞かずにいられなかった
平静な顔をして、カデは全身をあいつの声に傾ける

「お前の息子は、このたび売夫をやとって
自分の性処理の相手をさせているそうだ」

あいつの虚勢をはって作った笑顔が固まる
一瞬泣きそうな顔になる
自分の起こした、全て、
自分で葬った、事実、
それが、牙を剥いて襲って来た、そんな風に

「そうか」
そう、悪いニュースでもないように、カデは目元を緩ませた
「それで?」
「血は争えんな、カデ
あいつは淫売だ、お前と同じ血が流れてる」
嫌悪したように、吐き捨てた
あいつの顔を、無表情で眺めながら、カデはあの、一番最初の、冬の日を思い出す
寒い日だった、雪が降っていた
誰もいない、山の野原で、カデはルシュと供にいた

『やめ……やめろ、カデ』
そういうルシュの首筋は、ほの紅に染まり、
きらきらと細かい汗が光っている
『ルシュ……』
ルシュのものを口に含んでいたカデは顔を上げて、
涙の滲んだ、悲しい顔をした
思い出は色をのせて、鮮やかに繰り返す
『こ……こんなことをして……ただですむと』
『思ってないよ…ルシュ』
あの時カデの理性は確かに飛んでいた
ルシュの皮膚、ルシュの声、全てが愛しかった
ルシュの体を抱きしめるようして、接吻する
『ルシュ』

あしいて

かつん、と音がした
はっとなって見ると、ルシュは向きを変えて去ろうとしているところだった

「バイバイ、ルシュ」
「カデ……」
瞳がなによりも泣いている
どうしてこうなってしまったんだろう
どうして、こうなりつつあるんだろう
「カデ、お前、俺のことを……」
その先は、いつも消えていく
ルシュは怖がっている、カデはそれに気づいていた
愛しいルシュ、でも、自分の心を吐露することはできない
そうすれば、何かが終わってしまう、ルシュの虚勢、ルシュの、守っているもの
カデも、ルシュも、予感に、動けずにいた
***

さみしさ

電話をすると、いつもの男性の声が聞こえた
突き放したように、いつもの問いを繰り返す
「お名前は」
「カーヤ……カーヤ、です」
「ああ」
男が溜息を漏らす、これもいつもと一緒
「ご指名ですか?」
「フォー……いますか」
「…………」
長い沈黙が落ちた
いつもと違う展開に、少し驚いて、
カーヤは困惑に心音が高鳴った、少し、嫌な予感がする。
フォーに怒られた、あの日以来、フォーとは会っていなかった
会うのが怖くて、フォーがいやがっているなら、会ってはいけないと思って、けれど、
それでも寂しさに耐えかねて、こうしてまた呼び出そうとしている。
カーヤは受話器の線を手に絡ませながら、つばを飲み込んだ。
何が起こったんだろう

「フォーは今、出払っておりまして……」
(あの人も運が悪い)
さっきまで話していたフォーの口ぶりを思い出して、
電話番、ユナ・シャルは思った

「じゃ、じゃあ他の」
なんにも気づいていないらしい、カーヤが言う

「あいにくあなた様のお相手をできそうな者は一人も……」
(ぼっちゃん、あきらめな)
フォーはもう限界だ、と言った
恋人だと、恋人
これ以上もう会えない。
ユナ、あいつの電話が次ぎに来たら、俺はいないと言ってくれ

カーヤが、エデンの家から捨てられた子供でなければ、
もっと違っていただろう、しかし、事実は残酷な現実であり、
カーヤはエデンから捨てられたのだ。
「相手」をしてやれる人間なぞ、一人もいない。
フォーは自分の冷徹な心に自信を持っていた、
だから、カーヤの相手をしたのだろう、
もっと長く続くかと思ったのだけれど

「誰も……?」
「ええ、誰も……」
「……」
カーヤの沈黙を聞きながら、
ユナはもう一度ため息をついた
気の毒なぼっちゃん。あんたが最初からエデンの者じゃなければ良かったのに。
「……フォーは、何時頃戻ってくる?」
「……あいにく、何時とは……」

ここで切ることもできた、
じゃあまたかけなおします、と
フォーはきっと、カーヤを嫌ってしまったのだ
恋人なんて、言ったから。
カーヤが勘違いしたから。
電話なんてかけなければ良かった、後悔している

しかしカーヤは今すぐぬくもりを感じたかった
できればフォー、だめなら誰でもいい
ただ、誰かにそばにいてほしかった
カーヤは時折、発作のように寂しくなって、
人のぬくもりをがむしゃらに求めるときがあった
この時もまた、フォーに会いたくてたまらなかった

「じゃ、じゃあ、あんたじゃだめ……?」
「私ですか?」
「うん……」
「……」

苦笑いを浮かべているような、沈黙が落ちる
とっさにカーヤは早口に捲し立てた

「か、金なら倍払うよ、
だめなら三倍払う、お、おれ、金ならいっぱい、
な、なぁ」
「三倍、ですか……」
「ご、五倍払う」
「それがいくらなのか、分かっているんですか?」

分かっていた
毎月「あの人」から送られてくる、唯一の大事な絆、
その金額の半分以上になる

「だ、大丈夫、
俺、あんまりお金使わないんだ、
あ、あの人が大事だし……ほら、なんかあったら、
これだけ使ってないですよ、って言えるだろ?
そしたら、あの人、お、俺のこと、見直してくれるかもしれないし」

「……」

「だ、だからまだあまってて……」

「二倍払ってください、
そしたら私が行きます」
「う、うん」

カーヤは希望で顔を明るくした
良かった、誰であれ、カーヤのそばに来てくれる
涙を殺して、まくらを抱きしめなくてすむ

「おまえ、な、名前は……」
「ユナ・シャル。
ユナと呼んでください。
5分後に。住所は前と同じところですね?カーヤ?」
***

かいらく

ゆっくりと、ユナが唇をカーヤの唇にはわせる
あまりの快楽に、カーヤはほとんど意識を失いながら、
ぜいぜいと、何もできずにいた

ユナの愛撫で、カーヤは既に二回達していた
ユナは部屋に入って来た時、カーヤに微笑みかけて、
よろしく、と言った
そんな風に微笑まれたことなど、ずっとなかったカーヤは
それだけでもうドキドキして、大変嬉しく思った
また脱いでもらって、ベッドに横になってもらって、と考えていたカーヤを
ユナはいきなりひきよせて、キスをした
カーヤの頭は真っ白になった
唇に接吻、一番最初に、フォーに噛み付かれた時より、
したことはない
驚いて固まっているカーヤに、ユナは優しく、心地よく唇をはわせた
次の瞬間カーヤはユナを押し倒して足に自分のものをすりつけて、射精していた
こんな風に、暖かい優しいキス。何度も何度も夢見ていた、接吻。
カーヤはあまりの嬉しさに、悲鳴のようにあえいだ。
いった後もぜいぜいとユナの足に押し付けるカーヤを、
ユナは不思議と落ち着いた笑みで見守っていた
もうなにもかも分からなくなって
カーヤはぐちゃぐちゃになって泣きだした、
その体をユナ両手で抱き上げて、ベッドに横たえさせ、驚いたことに、もう一度接吻した、
カーヤは嬉しくて、嬉しくて、幸せで幸せで、へたくそな舌使いでユナの唇を夢中で吸った
歓喜に上下するカーヤの胸をユナの手がはう
むずむずするような淡い快楽に、カーヤの体がびく、と反応する
そこに手を重ねられた時、カーヤは二度目の絶頂を味わった
ユナ、ユナ、と何度もつぶやいた
ユナはカーヤを抱きしめてくれて、その上、またキスをした
カーヤは幸せだった

例えユナが、お金のために来た売夫で、
カーヤを愛していないにしても、
今、カーヤは愛情を感じていた
偽物だとしても、カーヤは幸せだった


眠っていたらしい。気がついたら、カーヤはベッドの上で、
隣にユナが横たわって、目覚めたカーヤに、おはよう、と言った
三度いったところまでは覚えている、その後の記憶が無い。
「カーヤ、もうどろどろだったから、
続きはやめておきました。大丈夫ですか?」
「……ユナ」
カーヤは不意に涙がにじんだ。
目が覚めて、一人きりじゃないと言う幸せ
心配される幸せ
カーヤは今までで一番、幸福を感じていて、
ユナに愛されていると、錯覚を起こしていた
「ユナ……、あれ、セックス?
あれがセックスなのか?」
フォーと幾重にも違う、ユナの愛情
あれが愛の行き来というなら、納得がいく
とてつもなく気持ちよくて、幸せな行為だ
「……違うよ、セックスはまだしてない」
「……違うの?」
びっくりしてカーヤはユナをまじまじと見た
あれだけ気持ちがよかったのに、セックスじゃないとは
いったい本当のセックスになったら、カーヤはどうなってしまうのだろう
「……、カーヤ、フォ-とやってないんですね?」
「やってない?」
「セックス。」
ため息をついて、ユナが起き上がった
「私はもう行きます。
フォーを罰せねば。
誰であれ、お金をもらう限りは仕事をしなければならないのに」
「ゆ、ユナ」
カーヤはあわてて叫んだ、罰する?フォーを?
違う、違う、フォーが悪いんじゃない
「ち、違う、フォー悪くない、俺が悪いから、
罰せないで、罰だめ、だめだから」
罰というものをカーヤは知っている
冷たい牢獄に入れられることだ。カーヤの大好きだった人も、今罰せられている
そのためにカーヤは捨てられた
フォーがそんな目に遭うことなど、耐えられない
「……」
くすっと笑って、ユナはカーヤの頭をぽんぽんと撫でた
「大丈夫、
ひどいことはしないから」
「ほんと……?」
「ええ。
カーヤ、今日は二倍と言いましたけれど、
セックスはしていないから、いつも通りでお願いします」
「お、お金?」
「はい、ありますか?」
「あっちに……」
「まいどどうも」
にっこりと微笑んで、ユナはカーヤの指した戸棚に向かった
その後ろ姿を見つめながら、カーヤはなんだか寂しさを感じた
ひどいことはしないとユナは言った、それは信じられる気がする
安堵したとたん、ユナが行ってしまうことに、悲しさがにじみ出る
「ユナ、もうちょっといないか?」
「無理ですね」
「無理か」
「また呼んでください」
「う、うん!!!」
勇んでカーヤは返事をした
嬉しくて胸がつぶれそうだった
また呼んで、とユナは言った、また俺に会いたいのだ
「じゃあ、カーヤ、今日はこれで」
戸棚の上のお金をポケットに入れて、
ユナは挨拶をして、ドアから出て行った
ドアが閉まる音を聞きながら、
カーヤは今までに無いほど満ち足りた気持ちでいた
ユナに愛されている、とそう思った
***





てがみ(カデより)

古くなった着物を薄く破いて、
石でかりかりと字を書く
深夜。月明かりだけが頼りだ。
牢番は先ほどからかく、かくっと、船をこいでいる
色のうつる石を見つけた時、カデは嬉しさに満ちた
これでカーヤに手紙を書くことができる
月明かりと、布と、石
それだけあれば、十分だ

「あいしてる
けんこうに きをつけて
K」

それだけ書くのが精一杯だけれど
カーヤは分かってくれるだろう

一回強く、短く、次は長く、その次は短く、口笛を吹くと
ぱたぱた、と音を立てて、夜鳥が飛んで来た

「よーしいい子だ」

鳥も心得たもので、なるべく音を立てないように近づくと
静かに停まり、カデの動きを待った
カデはその足に、素早く布を巻き付ける

「いいこだ、カーヤによろしくな」

全てを知っているかのように、鳥は一度カデを見て
そして翼をひろげ、夜の街灯りへ
ひるまずにまっすぐ、飛んでいった

「カーヤ」

一瞬、苦い想いが去来する
愛しいカーヤ、
俺の子供。
鉄柵をにぎりしめて、頭を垂れる

幸せでいてくれ
頼むから


かさかさかさ、っと音がした
昔、この部屋にはカーヤという名の子供が住んでいた
今はもう、誰もいない
乾いた空気と、冷たい隙間風の中、
ルシュは頭を抱えて絶望していた

誰が許しても、世間が許しはしない。
カデ。カーヤ。
地獄に突き落としたのは、俺だ。

ぱたぱた、っとまた音がする
はっと顔を上げると、黒い夜鳥が窓に降り立つところだった
右足の白い布が、闇の中ではためいている

「……」

無言で、ルシュがその鳥に近づく。
カデの鳥だ。この鳥は、ここからカーヤが去ったことを知らない。
馬鹿な鳥だ、馬鹿なカデ、何を信じて、鳥に想いを託すのか

右足に結びつけられていた布をそっと外し、
しっしっと追い払う。
不服なことをされたように、鳥は二回強く鳴いて、飛んでいった。

布を開くと、がりがりと苦心した文字で、カデの想いが踊る。

「あいしてる
けんこうに きをつけて
K」

「これじゃ、俺あてかと思うだろ」
泣きそうな声でルシュはささやいた
知らないのか、知っているのか
カデの手紙はいつも宛先が無い
微かに揺らぐ、もしかしたら、という悲しい想いを、
ルシュはふりはらう。

俺にあてたわけはない。
カデは俺を恨んでいるんだ。
あんなことをされて、恨まないわけはない。
カーヤに、送り届けなければ
お前の父親からの、愛しみの手紙だと。

しかし、自分は、そうすることができないのを
ルシュは知っている
布を手のひらにのせて、ただじっと見つづける。
カデの書いた愛の手紙、何枚も、何枚も、
ルシュの部屋に隠してある
カーヤに送ってしまえば、
送り届けてしまえば
それがカーヤのものだったとはっきりわかってしまいそうで
カデはルシュを恨んでいると、はっきり思い知りそうで
怖かった

意識が、ふと途切れた
深淵の心からの行動、
突き動かされた、行動
ルシュはそっと、唇を近づけて、その手紙に接吻した
草の匂いが、少しした
***

マナー

「マナー教えて」
「マナー?」
ユナの胸の上で、吐息をはきながら、カーヤはほうずりをした
「あの人とか……、フォーとか、
お、俺のこと、嫌ってるだろ?」
「……」
ユナは答えられない
フォーのことなら分かる、あいつは嫌っているのではない
好きになりそうだったから、カーヤを遠ざけたのだ
悲しいカーヤ。
あの犯罪者の息子でなければ良かったのに。
「どうか、わかりませんけどね。
それで?なんでそれとマナーが結びつくの?」
「マナー……よくなったら、
好かれるかも」
へへ、とカーヤは笑った。
照れたような笑みだった。
「いっぱいいっぱい勉強して、頭よくなってさ、
マナーもよくなってさ、いっぱしになったらさ、
あの人んとこいくんだ」
「あの人?」
「パ……ルシュ様のところ……
もう、俺、いちにんまえになりました、
やましいこころもすてましたって
そういうんだ、そしたらさ、きっと俺がいっぱいよくなっていたらさ、
きっとお父さんも許してもらえるよ、だって俺が悪かったんだもの
俺が悪いから、父さんは罰せられたんだもの」
「……」
そっとユナはカーヤのほほをひきよせ、接吻をした
冷たい唇のしめった感触に、カーヤはくらくらする
ユナの唇は愛しくて優しい
ユナがカーヤを愛しているのかどうか、分からないけど、
行為の後はいつも、愛されていると錯覚する。
知られないようにするんだ。
絶対知られちゃいけない。カーヤが、ユナを愛しかけていること
あの人に向ける視線と同じように、愛しかけていること。
きっと、ユナは気持ち悪いって言って、出て行ってしまう。
フォーも、カーヤが好きだと言ったら、はなれていってしまった。
あの人も、カーヤの気持ちに気づいたから、
怒って、父さんを牢獄に入れたのだ。
きっと、多分、そう。
父さんが、牢獄に入れられる理由なんて、それしかない。
「ユナ……、マナー教えて、お金払うよ」
快楽に浸りそうになる自分を押しとどめて、カーヤはもういっぺん頼んだ
ユナは微笑んで、そして、そっと頷いてくれた

私は残酷だ。
心の奥底で、ひっそりとユナは思った
笑顔を崩さないまま。
マナーがたとえ良くなっても、
カーヤの父、カデは許されない。
「何をして」獄中に放り込まれたのか、
正式には公表されていないが……、何となく伝わってくる、うわさ話

強姦、ということば。

もう一生、カデは牢獄から出ることは無いだろう
同じようにカーヤも、人から愛されることなど、もう一生ない
同情している訳でも、ましてや愛している訳でもなかった
ユナの心は、人を愛するようにはできていない
ただ、お金が稼げるなら。
それだけの理由で、ユナはカーヤの話を聞き、頷いた
ただ、それだけの理由だと、自分に言い聞かせながら。
***

てがみ(ルシュより)

「うん、上手ですよ」
ナイフとフォークをぎこちなくあやつって
カーヤが豚肉を切り分ける。
ほめてくれたユナの顔を見て、崩れたように笑った。
豚肉はでき合わせを買って来たものだ、冷えていてあまりおいしくはない
カーヤに「普通の」食材を売る店はもうあまりない
カーヤが買おうとしても、売り切れだったり、ゴミのようなものだったり、
なぜかはカーヤも分かっている
だけど今日は特別だから。
ユナがマナーを教えてくれるから。
何軒も回って、なんとか頼み込んで、売ってもらったのだ。
切れっぱしだけれど。
「お、おれ、上達した?」
カーヤがほほを赤らめて、ユナに問う
ユナは微笑みながら頷く
「ずいぶん上達しましたよ、
もうどこに出ても恥ずかしくない」
実際カーヤは熱心な生徒だった
物覚えがいいとは言えなかったが、
集中して全て覚えようと一生懸命にやるので、
すぐに上達していった

ユナの言葉に、カーヤがくすぐったそうに笑う
「もうすぐおとーさんのとこ、いけるかな」
「……」
それには答えず、ユナはワインをとった
「もう一口、いかが?カーヤ」
「う、うん」
その時、かたん、と軽い音がして、郵便受けから
白い紙が落ちるのが見えた
カーヤが驚いて立ち上がる
「??
手紙?」
「……、誰からでしょう?」
カーヤに手紙が来ることなど、あり得ない
だそうという人など、いないのだから
カーヤは少しどきどきしながら、走って郵便受けから手紙を拾った

その表を見て、これ以上無いほど心が高まった
金色の紋が押してあり、
差出人の名前に、「ルシュ・エデン」と書かれていた

「パ、パパからだ!!!!」
思わず叫びながら、はあはあとカーヤは息をついた
ごくりとつばを飲み込む、
カーヤに手紙、あの人から、手紙
カーヤに、手紙。

「パパ?」
「パパ……ルシュ、ルシュ様、パパから……」
「……?」
「あ、ち、ちがう、パパはもういっちゃいけないんだけど、それは
あ、あのさ、これさ、
きっと、許してくれるってことが、書いてあるんだ、
なぁ、きっとそうだよな、な」
「……では、私はおいとましますね、カーヤ」
「え、な、なんで」
「『パパ』の手紙はひとりで読まないと、
許してくれるって書いてあるといいですね」
「……う、うん……」
カーヤはなんだか頭がぐちゃぐちゃになって、
嬉しさと少し悲しい感じと、期待に、もう何も分からなくなって
ただユナが去っていくのを見守った
ユナが微笑みながら手を振り、ドアがきっちりしまると、
ドキドキしながら、
机の横に立って、震える手で何回も失敗しながら、
手紙を開けた
開けた瞬間、カーヤは涙が噴き出すのを感じた
許してほしくて、許してほしくて、
ずっと許してほしくて
何度も謝った、夢の中で、空想の中で
たまにあの人の家の近くに寄るとき、
そこを見上げながら、何度も思った
許してください、ごめんなさい、と

お父さんと俺を、許してください

きっと、許してくれたんだ
カーヤがこれだけ思っていたのが、伝わったのだ
***
ひあい

雨が降り続いている
闇の中で、しとしと、しとしと。
ユナは電話番をしながら
―本来なら、これがユナの仕事なのだ。
売りに出ることなど、もう何年も前にやめたこと。
この店を、取り仕切っている今、
ただ高見からすべてを見守ればいい―
なんで、今日、あの時帰ってしまったのだろうと、
ぼんやり考えていた
帰ることなどなかったはずなのに
お金も受け取らず、ただ慌てながら、帰って来てしまた
そうだ、ユナは慌てていた。動揺していた。
分かっていた、あの手紙が、カーヤにとって嬉しい手紙ではないこと
読んだ瞬間、カーヤがどう思うか、あの、いとしい……
そこまで考えてぎょっとしてユナは思考を止めた。
いとしい?私はいとしんでいるのか?カーヤを。
まさか。お金のためだ。全てお金のためだ。
違う、いとしいからじゃない、馬鹿な。ミイラ取りがミイラになるような、そんなまさか。

混乱するユナの思考を打ち切るように、
電話がけたたましくなった
数秒置いて―驚きすぎて、思考が固まってしまったのだ―
ユナは冷静な声で電話を取った

「はい、こちら色屋です」
「…………ゆな?」
カーヤだった
心音が高まった
案の定、カーヤは泣いていた
慟哭しているのが、押し殺したかすれた声で分かる
「ユナ……こっち、きて……
きてくれ、たのむ……
いっしょにねて」
「カーヤ、分かっているとは思いますが、
一日に何回も同じ人間を呼ぶのは……」
「ユナ……」
カーヤが悲鳴のように懇願する
「たのむ……たのむ
お、おれくるっちまう……
ユナがいいんだ、ユナと一緒にいたい
おねがい、ユナ、ユナ、おねがい」
「カーヤ……」
そっと、ユナはため息をついた
「なにか、あったんですか?」
「…………おと、さんが、しんだって……」

雨が、降り続いている



傘をたたんで、ユナはカーヤの部屋のチャイムを鳴らした
すぐにドアがひらき、悲壮な顔でカーヤが出てくる
「ごめ……んな、ユナ」
思ったより、カーヤはしっかりしていた
いや、悲しみが絶望にすり替わり、そうしないと立っていれないほどなのだろう
まだ、現実が受け止められないのかもしれない
「はいって……」
カーヤにかける言葉が見つからなかった
ご愁傷様です、も、大丈夫、も、全部なにか違う気がした
カーヤがふらふらと、ユナに背を向けて、
部屋の中へと案内する
思わず、その背を抱きしめそうになって
ユナは自分の心を殺した

「一緒に、寝てくれるだけで、いいから」
「……」
「せっくすとか、いいから」
カーヤがいいわけのように繰り返す
悲しいカーヤ
痛々しい、カーヤ
ユナはそんなカーヤを見ながら、
必死に自分の心を打ち消す
カーヤを抱きたいと思っている、まさか、違う
慰めたいだけだ、同情だ、違う、愛情じゃない
ぶるぶるっと、ユナは首を振った

「ベッド、寝よう、ユナ」
カーヤが微笑んだ。
痛みを感じる笑みだった。


深夜。
まんじりともせず、
ユナは何遍目かのため息を飲み込んで、
カーヤの気配をそっと伺った
さっきもだ。
さっきもカーヤはベッドから抜け出し、風呂場に行った
いったい何をしているのだろう、シャワー?
なんでそんなに何回も。
戻ってくるカーヤの体が、氷のように冷たく感じられて、
ユナは嫌な予感がして仕方がなかった
次、カーヤが風呂に向かったら……
急に、またカーヤが立ち上がる
そっと足音を忍ばせて、風呂場に向かう
かたん、たん、と風呂の戸のしまる音。
息を殺して二十秒ほど数えたユナは、
いきなりばっと起き上がってカーヤを追った

がたっと風呂場の扉をあけると
一瞬どこへ迷い込んだのかと思うほど冷気が広がった
「か、カーヤ?」
見ると、目を見開いたカーヤが、冷水のシャワーに打たれており、
カーヤのそこが、天を向いて勃起していた
「ご、ごめっ、ごめんっユナ、ごめんっ」
ばっと縮こまるように、カーヤが謝りだす
とにかくカーヤの体を温めなければと、
ユナはシャワーを止め、タオルでカーヤをおおった
ぼろぼろと顔を崩して、ヒステリーのように泣き出したカーヤを抱きしめ、
背中をこする
「どうした、どうしたんですか、カーヤ、泣かないで
大丈夫だから、なんて馬鹿な真似を」
「た、たっちゃってっ……ユナ、ユナが、きもちわるいっって」
「そんなこと言う訳無いでしょう、
ああ、唇も紫で、
くそ、カーヤ、とにかく体あっためないと、
シャワーだすよ、いいね、お湯ためて」
「お、おれ、ユナが、ユナがすきで、
ユナ、ユナが、ユナが、
きもちわるいことしたくない、したくないの」
「カーヤ、泣かないで、バカ、バカ、ほら、泣かないで」
カーヤの頤を持ち上げて、シャワーをだしながら接吻する
「お湯ためて、少し温まって、カーヤ、
くそ、どうすりゃいいんだ
カーヤ、ばか、この」
「ユナ」
ひっく、と、カーヤがしゃっくりをあげて、呆然とユナを見上げた
あんなに、冷静なユナが、混乱しているように見える
なんで。

シャワーが温かい。
ユナは自分の服を脱いで、
ぐちゃぐちゃのカーヤを二度抱いた
最後にいったあと、ずっといれたまま、抱きしめ続けてくれている
お湯はもうたぷたぷにたまって、
シャワーがあとからあとから流れるから、
どんどんあふれる

「……あったまりましたか?カーヤ」
「……うん……ユナ、ごめん」
「……」
答えずに、そっと髪の毛を撫で付けて、額に接吻する
「カーヤ、死のうと思ったんですか?」
「え、え?
ち、ちがう、そんなこと思ってない」
「ならもう絶対やめてくれ、
この真冬に冷水を浴びるなんて気違い沙汰だ」
「だって勃っちゃうから」
「そしたら私に求めてくればいいだろう!!!!」
びっくりして、カーヤがぱち、ぱち、と目をしばたく
「……す、すいません」
慌ててユナが謝った
「……」
ぷるぷるとカーヤは首を振る
「ごめん」
「いや……すまない……」
そっと、ユナはカーヤの乳首をこすった
「んっ」
「カーヤ……もう、むちゃしちゃだめですよ?」
「んん……ん」
「……」
可愛い、と言おうとして、慌てて口を閉じた
やっと冷静になったユナは、自分が凄まじく慌てていたことを今になって噛み締める
まだ、少し、動揺している

私は、どうしたんだろう

こんなつもりじゃなかった。
素直に認めたくはない
認めたくないが、
カーヤに心を奪われている。
***
うそ

泥の中で泣いていたカーヤ
朝から粉雪が降っていた、
あれはまだ、カーヤが十になるかならないかの頃
「どうした?」
顔を下げて聞いたカデに、ルシュは止せよ、と言った
「どうした?ぼうず、どっかいたいのか?」
「い、いない」
ぐずぐずと鼻をならして、カーヤが言った
その手のひらが赤く染まっていて、たいへん寒そうだった
「いない?誰が」
「とっと……とっと、いなくなった」
「捨て子だな、カデ、どうする?」
あっさりルシュが言う
苦笑いを浮かべて、カデはいいこいいこと、泥だらけのカーヤを撫でた
髪の毛も、雪に濡れて、冷たかった
「安心しろ、俺がとっと探してやるから、な?
泣くな」
あの雪の日。
カーヤは、俺といて、幸せだったのだろうか
俺のような不良の父親なんて、いやだったろうに

俺をおとうさんと呼んで、
ルシュをパパを呼んで、
可愛いカーヤは、慕ってくれた

カーヤが死んだ。
その言葉を、つぶやくようにルシュの側近は言った
道端で強姦にあって、殺されたと。
あれから何時間たっただろう
ぼんやりと石畳を見つめたまま、
カデは動けずにいた
あれからもう、何年たっただろう
今年、カーヤは16になったはずだから、
たった6年だ
たった6年で、いろいろなことがあった
本当の息子のように、カーヤを愛していた

愛していた

涙も出ない
ただ、ひりひり
ひりひり
ひりひり、とても痛い
胸が痛い
実際の痛みのように、とても痛い

カーヤ。
俺のカーヤ。ごめん、ごめんな。ごめんな。
死ぬ時は、苦しかったか、
せめて、苦しまずに死ねたか、
カーヤ、寂しかったろうに
牢獄にいれられた父親、そんな父親を持って、
カーヤ、いろいろな人に嫌われて、
悲しかったか、寂しかったか
そんな、ひどい目にあって


ごめんな。

その地下牢の二階上がった、カーヤの部屋。
寂れたカーヤの部屋で
ルシュは顔をおおって、ともすれば嗚咽を吐きそうになる心を
何とか静めようと必死になっていた

あの女―事件、あの事件、あの女が「光景」を見た時
俺にかけよって大げさに騒ぎ立て、
カーヤを捨てさせて、カデを牢獄に放り込んだあの女、
俺の、叔母。
彼女は今日も来た、猫なで声で俺に言う
疲れているでしょう、そうよね、レイプなんてされて、疲れているはずよ
この屋敷の管理、あたしに任せてみない?

額に、がりっと指がひっかかる

カデに謝って、カーヤに謝って、
全てさらけ出して、
俺はこの地をさって、
ふたりとも幸せになって
そうなるのが一番いい

あの女さえいなかったら

違う、あの女がいなくなっても、
また違う親族たちがやってくる
この屋敷の金を求めて

ルシュは手のひらをそっとはなした
指先に、小さな赤い血がついていた
額がちりちりする

土下座してでも謝りたかった
本当に、本当に、謝りたかった

カデが牢獄に入って、
カーヤがここを追い出された時から
ずっとずっと、謝りたかった

今日もまた、じっと、その衝動を押し殺す。
俺は弱みを見せない
俺は何の弱みもない
呪文のように繰り返す

ルシュの周りに集う、金の亡者達。
代代続いたこの家屋を、
あんなやつらに渡すことはできない

そのために、修羅を歩みだした、
もう、元に戻ることはできない。
あの時。
カデを裏切って。
カーヤを裏切った。あの時。

「ルシュ様」
いきなり、扉が開いて、ナナシマが入ってきた
冷酷な男で、頭が切れるらしいが、ルシュはいまいち好きになれない
何代目かの、ルシュの側近だ

「ここにいるときは入ってくるなといったはずだ」
怒りを沈めた声でルシュが答える
「カーヤとカデに、双方が死んだと伝えておきました」
「………!!!?」
「これでカデは手紙を書かなくなるでしょう、
カーヤもそのうち、街を出る
そうすれば、カデはあなたのものですよ」
「こっ……………………!!!!!」
「おや、お怒りですか?
あんな手紙をためているから、
てっきりカデをまだ愛しているのかと」
一瞬にして高まった、怒りに任せてナナシマを打った
異常なほど大きな音がし、ナナシマが少しよろめいた
「お、おまえ……」
「ルシュ様。
お遊びが過ぎます、貴方ほどのお方が、いつまで悩んでいるおつもりですか?
カデが欲しいなら、さっさとご自分の奴隷になさればよろしいでしょう
そんなうじうじと悔いに迷うより、けじめをおつけなさい」
ぺっと血を吐いて、ナナシマが手に持っていたノートを開き、
ルシュに見せつける。
「カデの体力の調査です。
明らかに下がりつづけている。
ルシュ様、貴方がお悩みの間に、カデは体力を消耗しております。
どうなさるおつもりですか?」
絶句しているうちに、まくしたてられて、
余計に何もいえなくなる
「もっともなことを、言うな」
ため息をついて、ルシュはベッドに座り込んだ
ほこりがたちのぼり、寂寥感に拍車がかかる
「わかっている…
なんとかする…」
「…はやめにお願いいたしますよ、
よくあることです、貴族には。
奴隷の一人、ふたり、いるのもよいものですよ」
「お前は本当に人間か………?」
「ええ、残念ながら」
ナナシマは鮮やかに笑った。
***
けっしん

ヒョウが降っている。
かこ、かこ、という硬い音に、
カーヤはぱちっと目を覚まし
一瞬どこにいるのか分からず、ぼんやりと天井を見上げた
今見た、幸せな夢の跡に、胸が上下している
感激で。

パパに謝った。
パパは、笑って許してくれた
いいんだ、いいんだ、カーヤ
俺も、悪かった、なにか勘違いしていた。
怒ってる?馬鹿な、カーヤを嫌う訳はないだろう
父さんを牢獄からだそう
死んだ?何を言っているんだ。
父さんは全然元気だよ、大丈夫、カーヤ、大丈夫だよ。

カーヤは泣いていた
温かい涙で、ほほがとろとろ濡れた
父さんと一緒に、パパと一緒に、また同じように、くらせる。
パパ、おれ、好きな人できたの、
父さん、けんかしちゃだめだよ、
あのね、ユナって言うの、あのね

目が覚めたら、ただ独りだった
布団からはみでた肩が、すらすら寒かった。
冷たい雨の音がしていた。
手をそっとだして、眺めてみた
父さんと一緒に歩いた時、あの大きな手を握った手のひらだ
パパがこの手を握って、ずっとずっと傍にいてくれたこともある
独りだ
これからは、ずっと独りだ
パパも、父さんもいない
独り

怖くなって、肩を抱きしめた
寒さか、微かに震えている、
温かいシャワーを浴びて、
これからどうするか、考えよう
ひとまず、それから

ぴんぽん、とチャイムが鳴った
びっくりして、ぽかんとそこを見守っていると
もう一度、確かめるようにピンポン、となった。
いそいで着替えながら、返事をし、玄関に向かう。
カーヤを訪ねてくる人など、いままでいなかった
誰だろう、そう思っただけで、
カーヤは何にも考えていなかった。
なんだかいろいろなことがありすぎて、
頭が停止していた。
扉を開けると、ユナがいた

「また泣いていたの?」
ベッドの上、ユナが、カーヤにゆっくり接吻する
何が起こっているのか理解できない。
なにも分からない。
ユナのぬくもりが傍にある、
ただ、それだけの、奇跡みたいなことが起こってる

なんで来たの、と、一回聞いた
ユナはただ微笑んで、理由はないよ、と言った
余計分からない。
これじゃ、まるで

まるで、ユナが俺を好きみたいじゃないか
勘違いしてしまう、いいの、ユナ、
言いそうになって、何度もつばを飲み込んだ
ユナは、いいなんて言わない、そんなの分かってる
馬鹿なカーヤ、まだ、期待してる。

「ん…夢見て」
「どんな夢……」
「父さんと、パパと、一緒にまた暮らす夢」
ユナを紹介して、と言いそうになって、
またつばを飲み込む
ごめん、ユナ、ごめん、
俺は、ユナが凄く好きだ
「泣かなくて良いよ…」
「ユナ…」
カーヤは胸に満ちる嬉しさに、不意に目頭が熱くなった
ユナが、ただ優しい、もしかしたら、ユナはただ同情して、
俺のところに来たのかもしれない、いや、多分きっと、そうなんだ
だから、期待しちゃいけない
でもユナが優しい
すごく優しい
どうしよう


どうしよう


お父さんが死んだのが、まだ信じられないこと、
本当は生きているのだと、想っていること、
もう一度会いたいこと、
ひとりぼっちだと思ったこと、
とりとめなく、ぽつり、ぽつりと話した
ユナにならば、自分の奥にあった
ほんとうが話せた
ユナが微笑んだ、大丈夫、と言ってくれた
「カーヤ、人はいつでも、独りだよ、お互いが理解し合うことなど、
ないと、私は思う。
だけど、だけどね、カーヤ、
寄り添うことのできる人は、必ずいるよ」
「ユナ……」
「ほらね」
ユナが、カーヤの手のひらを握る
「カーヤが何を想っているのか、
私は今、全然分からない、だけど、
カーヤのぬくもりは分かるよ、
カーヤも、私のぬくもり、わかるだろ」
一息、ユナが息を吸い込む
「カーヤ、カーヤはひとりぼっちじゃ、ないよ」
「ユナ」
ぎゅうっと、ぎゅうっとした、泣きそうな、
悲鳴を上げそうな、強い想いがわき上がって、
カーヤはユナにしがみついた
言ってしまいたかった、
ユナ、一緒にいてくれ、俺、俺、がんばって、
がんばって、おまえに好かれるようにがんばるから、
ユナ、頼む、一緒にいてくれ、
俺、おまえをあいしてる

あいしてる


「…カーヤ」
ユナが微笑む
ユナのあたたかさ、さらさら撫でる手の柔らかさ、
接吻の心地よさ、全てが、カーヤの全てになっていく
全部、世界、全部、ユナで染まってく
爪の先まで、こころがいっぱいになる
「カーヤ…」
ぎゅうっと、今度はユナがカーヤを抱きしめた
「この国を、出よう、カーヤ」
「え…?」
「チュカにいけば、差別など、ひとつもない
チュカにいって、一緒に暮らさないか、カーヤ」
じっと、ユナが、カーヤの瞳をみつめた。
「愛してる」
「………………………!!!!」
「あいしてる」
カーヤはぐっと黙って、ただ黙って、ぎゅっと黙って、
涙をこらえた
あいしてる
あいしてる
ユナの言葉が、ぐるぐるめぐる
あいしてる
「ユナ」
「カーヤ、泣かないで」
ぺろぺろと、ユナがカーヤのほっぺをなめる
「ユナ」
「カーヤ、ほんとなんだ、
私は、人を愛せない人間だと想っていた
芯が冷たいから、だけど、
カーヤに会って、全部が分かった
私も、私の中にも、温かいものがあるのが分かった
カーヤ、愛してる」

「ユナ、き、聞いてくれ」

カーヤが、ユナの胸に手のひらを置いた
誓いのように
「おれ、おれな、
お前と、チュカ、行きたいよ」
「うん…カーヤ」
「だ、だ、だから、だから、
ちゃんと、見てくる」
「ちゃんと…?」
「…ちゃんと…お父さんが死んだのかとか、
あと、なんで、お父さんが、牢獄に入れられたのかとか、
ちゃんと見てくる」
今まで、ずっと、逃げていたこと、
見たくなくて、見たくなくて、知りたくなくて、逃げいていたこと
真実。
カーヤは、それが怖かった。
知ったとたん、ほんとうにお父さんが悪いのか
ほんとうにパパはお父さんとカーヤを憎んでいるのか、
カーヤの信じていたものが、崩れそうで

カーヤは「あの日」の事件真相を知らない
深夜だった、眠っていた
その日のことは思い出すたび、「不愉快な日だった」としか言いようが無い
昼方、パパ―ルシュ・エデンが父さん―カデ・タナと話しているのを見て、
パパの親戚だと言って上がり込んで来た女が
「まぁいやらしい、まるで同性愛者みたいね」と言ってあざ笑った
その女は夕方になっても帰らず、パパも父さんも迷惑そうにしているのに
泊まるだのと言い出した

たまにパパと父さんはカーヤを追い払って
ふたりっきりで寝ることがあった、
その日もそんな風で、あのいやな女について
意見をしたかったカーヤはむうっとふくれて自分の部屋でふて寝していた
事件は2時頃だったと想う
女の悲鳴が上がった
黄色い、何かを喜びながら、人々に知らせるような嫌らしい声だった
次の日全てが変わってしまった

カーヤは、真実を知るのが怖かった
あの女の言う通り、お父さんが「しきじょうきょう」なのかと


でも

「俺は、
ちゃんと、知りたい」
深く息を吸って、呼吸を整える
「知った後で、考える、
もう一回。俺、どうすればいいか」
ユナはただ、暖かい微笑で、カーヤを見ていた
***

さいかい

石の階段は、降りるたびに、空気が一段と冷たくなっていく
この中に、お父さんがいるのか、いたのか。
何も想うまい。ただ、今は。
カーヤは、手のひらを強く握りしめて、足音を殺して、
ゆっくり降りる。
数ある屋敷からの抜け道を、カーヤは知っている。
それはつまり、屋敷にもぐりこめるということだ。
想った以上にあっさりと、ここまでこれた。
誰に見つかることなく。
こんなことなら、もっと早く、こうすればよかった。
父さん。
目を瞑り、もう一度あける。
もうすぐ、階段が終わる
牢から、月明かりが届いている
もうすぐ3月になる。
柔らかな夜。少し暖かい夜。
父さん、いま、いくから。

カーヤは知らなかったけれど
カーヤが潜り込んだことは、ナナシマによって、屋敷主に伝えられた
屋敷主は誰をも引き払い、
カーヤが牢に行きやすいようにした
そして自分が、その後を追った

ひげもそっていない。
今、なにかの感情があるのだとしたら、絶望。
ふと、思考が停止すると、死のことを考えている
俺はいつからこんなに弱くなったのだろう
カデは、ため息をついて、幾度目かの眠れない夜、
またループする悲しい思考をうちけそうとした。
カーヤは死んでしまった→俺が悪い→なぜルシュはカーヤを助けなかったのか→カーヤまでをもほんとうに憎んだのか→俺のせいだ
なんども、なんども、繰り返し、繰り返し、罪悪にうちのめされる
神様、俺にあたれば良かっただろう
罪があるならば、俺に罰をくれればよかったのに
なぜカーヤが、あの可愛いカーヤが

がたっと、牢の扉がなった
ゆっくりと、カデが振り返る
カデの顔を見て、カーヤがだんだん笑顔になっていき、涙ぐむ
カデの眼がみひらかれる

親子は、何ヶ月かぶりの再会を果たしたぎゅうっと、
ただぎゅうっと、カーヤとカデは抱き合っていた
足が少し冷たいけれど、もう、寒さは感じない
牢越しに、カデの手が
力強くカーヤを撫で、ぎゅうっとひきよせる

「すまなかった」

もう、何度目だろう、カデが謝る

「父さん、少し、やせた」

カーヤが、泣いたまま、笑った

「嫌な目にあったか?」

父さんが、カーヤに聞く。
その目も、涙に濡れている。
カーヤ、愛しいカーヤ

ぶんぶん、とカーヤが首を振った
「父さん」
聞きたかったことがある
「あの日」が来てから
ずっと、ずっと、聞きたかったことがある

「父さん、パパと、何があったの、
なんで、父さんは、牢にいれられたの?」



一番最初に、ルシュと愛し合ったのはいつの頃だったのか
カーヤと、まだ知り合っていない頃だったと想う
ルシュとカデは親友だった
ルシュの悲しみ、負っているものの重さ、
全て分かっていた
あの日から、もう、崩壊を前にしていた
ただ気づきたくなくて、見ないようにしていたんだ

今でも思い出せる、ルシュのぬくもり
ルシュの涙、ルシュのこえ

崩壊の日、
見つかってしまった、
あの時ルシュは、
人々を前に、「俺」が犯したのだと、そう言った
泣きながら、自分が求めたのではない、
俺が、犯したのだと
ルシュは、怖かったに違いない
自分の地位、周りを取り囲む、金の亡者
彼らと戦い、疲れ、俺といることで、安堵してしまうことが
怖かったに違いない
馬鹿なルシュ。可哀想な、ルシュ

「ルシュと、お父さんは恋人だったんだ」
「恋人?」
「そう、でも本当は恋人なんか、なっちゃいけなかったんだ
ルシュは、この屋敷の王様、だからね」
いいこいいこと、カデがカーヤを撫でる
「だから、それがみんなに見つかった時、
お父さんは罰せられたんだ」
「…………そんな、
だって父さんは、パパを愛しているんでしょう?」
「……うん……」
一時、間が空く
「愛してるよ」
カデは、カーヤを見ずに、まるで、何か違うものに言うように
心から、つぶやいた
「あいしてる」

がたんと音がした
はっとなって二人が振り返ると、
真剣な顔をした、ルシュが立っていた
***

にげよう

山の中を、歩く
ざく、ざく、ざく、
草の匂いが立ちこめる
もうすぐ春だ、
もうすぐ、花々が咲く

ルシュは

何もかも捨て、誰にも言わず、ただ手紙だけを書いて、
置いて来たルシュは、あのときのことを思い出していた
カデの牢の扉を開き、逃がしたあの日

手を握りしめると、それだけは持って来た、
カデからカーヤへの、手紙の布が、かさりという。

ふと、笑いがこみ上げる
嗚咽に似た笑い
あの女も、財産を狙っていたやつら、全部、驚くだろう
俺のなにもかもがなくなっていること
ルシュは昨日、全てを現金に変えて、
何個かに分けて、孤児院などに全額寄付してきた
なんで今までそうしなかったのだろう
ずっとずっと、しばってきた、あの日々

―もう、出て行け、

ルシュは、そう、ひとこと、ただつぶやいた、
視線をそらせた時、戸惑うカーヤと対照的に、
カデは微笑んだ
なんで微笑んだんだ、あの時、なぜ、カデ。
まるで、まるで
俺を許すように

―俺はもう、いい、お前なんか、お前なんか、もう、忘れる

ルシュは泣いていた、
あの時、分からなかったけれど、
今なら分かる、確かに、泣いていた
心から、全てを解き放った、あの瞬間

あいされていると、わかったあの時

―ひとりで、生きていく

カデは、ルシュの手のひらを、ぎゅうっと握りしめた
カーヤが、心配そうに見ていた

―一緒に逃げよう

カデ。
俺の、カデ。

がさっと音がした
ここに来るまでの道のり、そんなものは、もう体が覚えきっている
カデと、ルシュの、ふたりで愛し合った、
いつもの場所

カデ。

―カデは、ルシュを抱きしめて、一緒に逃げようともういっぺん言った
―ルシュは、首を振ることも、頷くこともできず、ただ、泣いてひらかれた場所、
柔らかな空気
かすかに、芽吹く匂い
夕刻の、赤く紫色に染まったそら。

カデは、真ん中に立っていた
ルシュを見て、微笑んだ。

「来ると、想っていた」

「来ると想ってた」
ルシュと寄り添い、手を握り合い、
カデはもう一度言った
ルシュは泣きそうな顔をしている
全て、全てが終わった、そのことに。

「信じていた、かな」

「カデ、俺は、もう、なにもない」

ルシュが、力なく言う

「おまえしか、いない
すべて、すててきた」

「……」

カデが、そっとルシュに接吻する
ルシュがそれに応じる
まるで、それが運命のように

「俺じゃ、いや、かな……」

じっとカデを見て、
じっと見つめて、
ルシュは微笑んだ。
忘れていた
笑うこと
忘れていた
こんな風に、人を愛しいと想うこと
俺は、なにをやっていたのか

「いこう」

月が見ている。今宵は満月。
もう、夜になった。
夜のうちに、この山を越えれば、
明日の朝、チュカに行く船に乗れる
追う者など、いないだろう、
ルシュを亡くそうと、何度もしかけてきた、あいつらのことだ
向こうには、カーヤと、ユナとか言う若者が待っている

カデがいる
ここに、いる、
ぬくもりを、くれる
だから。

だから

「いこう、カデ」

ふたり、ただふたりぼっちでも、生きていける
この広い世界で、
たったふたり、出会えたことが、


その印。


一緒に、逃げよう。
***

はるのつき

「よぉ……」
無愛想な顔で、フォル・フォーが入って来た
気が合うので、たまに呼び出しては、セックスをしている
カーヤを抱いたという話も、聞いた
「お久しぶりです。」
眼鏡を取りながら、ナナシマは笑った
「ルシュ様、出て行ったんだって?」
「……手紙がありました
不器用に、カデさんと出て行くと書かれておりました
あれじゃ追われるに決まっとるっつーのに。
書き直して他のやつらに見せましたよ」
「いいのかよ、それ」
「いいんですよ、俺がルシュ様の本当の心を知っている。
それだけでいいんです、フォー、酒は」
「持って来た、お前のだすのよりいいやつだぞ、
飲もう、ナナシマ」
「失礼な方ですね」
受け取った酒を封切ると、ぽんっとはじけた音がした
ジョッキにそそいで、乾杯、と重ね合わせる
かちん、とかるい音がする
一気にナナシマはそれを飲み干した
「おい……」
フォーが心配そうに声をかける
「いいんですよ、フォー、
いいんです」
「……なんだよ」
「はい?」
「……おまえさ、変な奴だよな、
冷たいと想ったら、荒れてやがるじゃないか」
「荒れてなんかいませんよ、もういっぱい」
「ほら。
荒れてるじゃないか。」
注ぎながら、フォーが言う
「ルシュ様が……好きだったのか?」
「……、あの人は、馬鹿な人です」
もう一度酒を飲み干して、フォーにジョッキを押し付ける
「にぶい。馬鹿だ。素直だ。手に負えない馬鹿だ」
「……おまえもたいがい馬鹿じゃないか?」
「いいんです、私は冷たいひやにんげんですからね
馬鹿で結構。だけどね、私は愛している人の幸福ぐらい
ちゃんと考える人間ですよ」
「そうだな」
なんだか、微笑みながら、フォーが自分に酒をそそいだ
それを少しかかげて
「それじゃ、ナナシマの失恋に、乾杯」
「はいはい、乾杯、ってなんで注いでくれないんですか」
「もうやめとけ」
「私の酒の強さを知りませんね」
「酒癖の悪さならしっとるぞ」
ナナシマは、ふっとため息をついて、天井を見上げた
ルシュ様のいない今、ナナシマがこの屋敷にいる必要もない
また職を探して、本当に愛せる主人を見つけよう
「フォー」
「ん?」
「抱いてくれませんか?」春の風が吹いている
屋敷がぎしぎし言う
この風で、重い冬が飛んでいく


遠く離れた、チュカのホテルでは、
カーヤとユナが互いの体に唇をつけ、
愛を育んでいた
ユナが愛しげにカーヤの額に接吻し、
カーヤのそこを愛し、
カーヤは快楽に埋没しながら、ユナの指先を一生懸命に追う。

隣の部屋では、一日中船にのっていたカデとルシュが、
重なり合うようにして、眠っている
時折、ルシュが寝言で、カデの名をつぶやき、
眠りながら、カデがルシュを抱きしめる



「ナナシマ?」
「ん?」
「ルシュ様……幸せになるかな」
「……なるでしょう、なにせカデさんが一緒だ」
「ユナも出て行ったよ、カーヤと暮らすって言っていた」
「どこに出て行ったか、知っていますか?」
「それは話してくれなかった。
慎重だよ、あいつは」
「……」
にやーーーーーっとナナシマは笑った
「ま、いつか、また会えるでしょう
縁があればね」
「縁……つーと、ナナシマと俺みたいなことか?」
「はあ?」
「腐れ縁」
がこっと、ナナシマはフォーをぶったたいた。10年後、カーヤとユナは結婚する
カデは、道場を立て、たくさんの門下生に恵まれ、
ルシュと一緒に緩やかに生きていた。
ナナシマとフォーが、もう一度彼らに会うのは
その時になる。


ただ、今
今このとき、
彼らは何も知らず、
夜の下で、自分たちの愛情を重ねていく


誰も彼も、幸せになればいい
いま、まさに、来ようとしている、春のように
心安らかに、
愛を紡げばいい

月が、全てを見ていた
2004-02-15 -838:59:59