リーちゃん

ゆるちゃん、という彼の顔が好きだった
ゆるちゃん
ちょっとだけ微笑んで
ちょっとだけ愛しそうに
そう、呟くんだ

「糸伊 ゆう」というのが僕の名前だけど
彼は必ず「ゆるちゃん」と言った
彼の名前はリキで、上の名前はないんだそうだ
りーちゃんと僕は呼んでいた

小さな引っかき傷のあるうでを
いつもハンカチで巻いていた
何かを隠すように。
そして引きつった笑みを
いつも、浮かべていた。



春先のこの古びた温泉宿には
リーちゃんと僕しか泊まっていないらしい
リーちゃんは僕が好きで
僕もリーちゃんが好きだけど
「一線を越えてはならんのだ」と
リーちゃんはいつも言う
だからベッドは二つの部屋に
いつも泊まる

タンポポ畑が近くにあるというから
下駄を履いて二人で歩いた
カランコロン

草花が生い茂り
木々が黒い影を落とし
下駄の音が夕闇に響く
カランコロン

リーちゃんは短い黒い髪を
えりさきできゅうっと縛って
着物を裏表反対に着て(なんでだろう?)
少しだけ涼しい夕方の赤い斜面に
溶けだしそうに、だけどすっと立って歩く

タンポポは確かに咲いていたけど
もう白い綿をそこかしこに噴出していて
あまり見ごろとは呼べなかった

リーちゃんは苦しそうに
「ああ、この着物はきついな」と言うけど
それは裏表反対だからだ、とか
帯をぎゅうぎゅうに巻くからだ、とか
こっちはいろいろ思い浮かんでしまって
おかしい

「リーちゃんちゅっして」
そういうと
リーちゃんは振り向きざま

「一線を越えてはいけんのだ」
と笑った
いつでも、そう言って
自分の気持ちをはぐらかしてしまう
リーちゃんがたまに悲しい



自分のことを話そうと思う
むかしのことはよく思い出せないけど
リーちゃんに会う前の、僕を

むかし僕は羊飼いをしていた
正確に言うと
羊を飼っている人からお金をもらって
羊の番をしていた

リーちゃんと違って
僕には父も母もいない
生まれながらに「旅人だった」
(とリーちゃんはよく言う)
(何が「旅人」か、よく分からないけど)

柵に腰掛けて、羊を見ているとき
たまに、朝日が昇るのを待ちわびていたとき
世界が白く変わるのを見たとき
たまに、夜通し草木が啼くのを見ていたとき
やっと雨がやむのを見たとき

僕は父と母を思い描いた
どんな人だったんだろう、とか
どんな風だったんだろう、とか

想像は頭の中で膨れ上がって
彼らは僕によるご飯をご馳走してくれたり
あったかな布団で一緒に眠ったり
笑いかけたり、笑いあったり
一緒に歩いたり一緒に散歩したり
そんな風に
ずっと浸っていたいほど
出来上がっていった

僕には父も母もいない
だからたまに
自分がここにいることを不思議に思う
父も母もいないのに
よく、生まれてきたな、とかそう思う。
そう思うと、僕が少し愛しい
リーちゃんに言うと
笑われそうな感覚だから
これは僕だけの秘密

僕はきっと女王様の、王様の息子
僕はきっと神様の女神様の息子
どんな子供にもなれる僕を
僕はそんなに、嫌ってはいない



カランコロン
もうすぐ暮れる夕闇に
下駄の音
カランコロン
リーちゃんの下駄は少し大きく
僕の下駄は少し小さい
びっこしゃっこの下駄しか
温泉宿にはおいてなかったのだ
リーちゃんは帰ったらみかんを食べよう
だのと言ってる

空を見ると
下の方が燃え立つほど赤いのに
上の方が済んだ黒いろをしていて
綺麗だった

彼は、
リーちゃんは
僕が好きだというけれど
僕はそんなリーちゃんを
ちょっと疑わしく思っている

リーちゃんは自分があんまり
正直なところ
あんまり好きじゃないんだと、
思ってる

そうじゃなきゃ、
僕に言わないだろう

僕たちお似合いだよね、
とか
僕たち結婚しようね
とかさ



リーちゃんの右手の話

彼の右手には
小さな無数の引っかき傷がある
青白い少し大きなあざを中心にして
何本も、何本も、蚯蚓腫れのように
消えることがない

その右手を見ながら
僕は寒いな、と
少し思った

風が冷たい
春の風は実のところ
体温を奪うには十分なほど
冷たいんだ

リーちゃんの白い腕についた
ちいさないっぱいの赤い傷
リーちゃんが
あざを嫌がって無意識に掻いた傷
せめてつめを切ればいいと思うのに
リーちゃんは、つめを切るのも苦手だ

たまに血が出て痛がっている
リーちゃん馬鹿だなぁ、というと
なにを!と怒ったまねをして
ちょっと泣きそうな顔になる

それが可愛かったけど
悲しかった

目をそらすと
もう空の赤は群青に変わってる

やっぱり馬鹿なのかな
とか言う

だからいつも、頭をはたいてやる。
いつものパターン
そうだみかんを食べたら、
もう一度傷の手当てをしてあげよう
そして
少し力を込めて
はたいてやろう。
そうするとリーちゃんはちょっとだけ
安心したような顔を、するんだ。
本当に、少しだけ。



リーちゃんのお父さんに
リーちゃんと会ったことがある



ああ、ねぇ、
地獄だったよ
まるでさ
今でも、地獄は変わらないけど

ああ、うん
確かに
地獄だった気がする

もう家を出て何年もたつのにさ
どうしてだろう

…どうしてだろう
彼と会うと
また泣いてしまう

どうしてこんなに
俺は
弱いんだろう



リーちゃんの右手のひらのあざは
「許しがたいあざ」と呼ばれていて
前世罪を犯したものにしか
現れないと呼ばれていて

そんなのは迷信だと
僕はいつも思うけど
この町のだいたいの人は
信じてる

「戻ろうか」
突き当りまできて
リーちゃんが言った、ぽつん
声がやみに落ちる

タンポポ畑は
もうとおに群青を過ぎ
うす暗い白い光を放ってる
寒いね、というと
リーちゃんは嬉しそうに
「俺のはおり、やろか」って言った
うん、リーちゃん
リーちゃん、また来ようね
また、温泉来ようね

嬉しくって
手を握った
嬉しくって
リーちゃん、と何度も呼んだ
リーちゃんも嬉しそうに
何度もゆるちゃんって言うから
余計嬉しかった
たんぽぽの白いわたげが
ふわふわ飛ぶ

リーちゃんの顔が
急にゆがんでそれから無表情になって
かたまった

「あ、リーさん」
駐在さんだった

リーちゃんはいつも
あざを隠して
道を歩くときは
一生懸命
背筋を伸ばして
きちんと歩いている

誰か、人に会うとき、
リーちゃんはすごく緊張する
そして僕の手のひらを(きっと無意識)ぎゅうぎゅう握って
汗びっしょりになってる

いつか、ばれないだろうか
いつ、ばれるだろうか

僕に会ってから2年しか経っていないけど
リーちゃん、リーちゃんが今、どう思っているのか、とか
リーちゃんがどんな風にないているのか、とか
僕は手に取るように分かる

わかるんだよ



川のせせらぎの音
この部屋まで聞こえるんだね
少し寝苦しい夜
ぽんこつな空調もうまく効かないし
布団はへたなぐあいに蒸し暑い
そんな夜

リーちゃんの吐息が小さく、聞こえた

「俺は本当に罪を犯したのかな」

僕にも、誰にも、聞きたいわけじゃないんだろう
呟くように、そう言った

闇に、川の音に
彼の声が紛れ込む
さらさらさら
さらさらさら
さらさらさら

きっと
そうじゃないよ、って言っても
そうだよって言っても
リーちゃんは納得しない

納得、しないだろう


あおぐらい天井をずっと見ていた
リーちゃんが微かに、
おやすみ、と呟いた
ちいさい濡れた声だった
あおぐらい天井は徐々に大きくなるようで
ただ、ずっと見ていた

蒸し暑いのに
布団をはぐと
寒いんだね

リーちゃんは
多分
自分が、嫌いなんだと
そう思う



深夜起きると、
リーちゃんがぼーっと
夜を見ていた

夜、朝が少しだけあけかけた
白い月

宿のいすに座って
ただぼーっと、鏡のような窓ガラスを見ていた

「僕はリーちゃんが好きだよ」

ぽつりと言うと、
大して驚いてもいないように
こっちを見て
それから静かに視線をそらせた

「でもリーちゃんは
リーちゃんが好きな人がほしくて
僕を好きになったみたいだ」

リーちゃんは身動き一つしない
聞こえているのか、いないのか
どっちでもいいやと、思って
そのまま起き上がってトイレに行った
夜の廊下はひたひたして
少し自分が情けなかった

なんで、リーちゃんに
優しく出来ないんだろう



ああ、うん
あざの所為だけど
あざの所為じゃないかもね
自分のせいかも。
俺ってほら
うじうじしてるから

これがさ、
笑っていられる奴だったら
もっとちがったのかもしれないね
あざついてるよーって
笑っていられる奴だったら
もっと、ちがったのかもしれない
もっと、親父もお袋も
笑ってくれたかもしれないね

…何度だって愛されたいっていった、
何度だって許されたいって言った
ずっと俺はそう言っていた気がする
気がついたら
何度も何度も
手、ひっかいててさ
愛されたいようって
俺、泣いてるみたいだな
まるで
情けないな

愛されたいよう

それでも許されなかった
それでも愛されなかった
もう十何年も
愛されないのに
まだ
あきらめきれない
まだ

…まだ愛されたいようって
俺は
泣いてるんだろうか



「リーちゃん、おきてる?」



これじゃいけないのに
これじゃいけないと分かりながら
うごきだせないのは
そこに希望を
希望を持ってしまうからでしょうか

まだここにいれば
まだここにいれば
幸せになれると
思ってしまうからでしょうか

この場所じゃいけないと
分かっているのに
捨てきることも
拾い上げることも
出来ないと
分かっているのに

何で人は
たかが紙切れのような
希望にすがりついて
泣くんでしょう

どうして、救われないと
泣くんでしょう


はじめて感じたリーちゃんのからだは
あたたかかった



リーちゃんが好きだよ
あざがあっても
なくても
きっと好きだったよ

だから
気がついてよ
わかってよ

リーちゃん
リーちゃん、僕を
好きじゃなくてもいいんだよ

僕に
愛されなくても、愛さなくても
いいんだよ

すきを頼りにしないで

誰かに好かれないと
生きていけないって
ただの、幻想なんだよ

リーちゃん

リーちゃん、
僕はリーちゃんが好きだよ

でも
リーちゃんが
きちんと笑ってくれるまで
きちんと人と会えるまで

好きでいられない

リーちゃん

みんな、怖いんだよ

みんな、怯えてるんだよ

誰かに好かれないと
歩けないって
思い込んで
みんな怖がってるんだよ

でも
そうじゃない

リーちゃん

リーちゃんは
きちんと
立てるんだよ

もうきちんと
一人で
歩けるんだよ

何十年も
何十年間も
支えが必要なときでさえ
支えはなかったけれど

大丈夫

僕は、きっと、また会っても
会わなくても
リーちゃんがどんなに変わっても
リーちゃんが

好きだよ

リーちゃんが

好きだよ


一人で、歩けるよ

一人で、生きれるよ

人ってね
一人で歩いているから
人を
愛せるんだよ

リーちゃん



リーちゃんはずっと泣いていた
僕を抱きしめながら
痛いほど抱きしめながら
泣いていた
骨がちょっとだけずきんてして
心臓がちょっとだけ
ずきんとした

リーちゃん
愛してる、愛してる、愛してる

愛してる
愛してる

自分の力を
信じてください



空に青が満ちてる
雲が少しだけ流れてる
リーちゃんは黒い短い髪のえりあしを
ぎゅうっと結んで
デクノボウみたいに突っ立って
柔らかい笑顔で、僕を見ていた

白い雲
あったかい風に
草花が揺れてる
もう、五月だね
初夏の季節が
もう、くるね

「じゃ、一回さよならね」
そういうと
「お前は強いな」
そう笑った

「違うよ」
笑って見せたら
少し黙って
「そうだな」って
言った

「またね」
「うん、またな」

ふたり、いっせいのせで別れた

風が吹く
風が吹く
一度だけ突風が
びゅううっと
吹き上がって消えた
たんぽぽの綿毛が
いっせいに飛び立った

振り返ると
リーちゃんの姿が
その綿毛に隠れるように
歩いてる

さくさく、と土を踏むたび
ぼおっと綿毛がその足から飛び立つ

先へ行こうと
先へ行こうと
綿毛が飛び立つ

一度も、振り返らなかった
振り返らなかった
ぼろっと、なんでか
涙が、出た
すごく熱くてびっくりした
リーちゃん



十年後、僕らは再び会うでしょう
忘れていなければ
僕らは再び会うでしょう
そのときこそ
そのときこそ
一人一人で、二人だといいね
一人と、ひとりで
ふたりだと、いいね



―やあ
―やあ、久しぶり

―元気だった
―一応ね

―近くにね、
タンポポ畑があるの

―よかったら
一緒に
いこうか
2008-04-08 23:16:40