I believe.

ええ、ええ、貴方が金夕花なのは植物なのは知っていますよ。

依子はそう言うとお茶を置いて出て行った、最後に湯尾に憎憎しげに「こんな人とばかり付き合っているから…」と言うのを忘れず。付き合っているから、何だと言うのだろう。

「はは、依子は皮肉屋だな」
渋茶を早速すすりながら、湯尾が言う、およそあの憎憎しい女の兄とは思えない様子に多子はこくりと頷く、その顔を愛しげに見て
「気にするな」
そう言った。

次の日は雨だった。湯尾の部屋で四六時中ラヂオを聞いていた。狂ったパーソナリティーという言葉を、ラヂオは始終繰り返していた。湯尾が来るまでそうしていた。

湯尾は午後5時に帰ってきて、二階にただいまーと上がり少し濡れそぼった外套を脱ぐと、おや、来ていたの。そう言って笑った。

背中合わせに座るのが好きだ。多子は湯尾といると必ず背中の方へまわって座り背骨と背骨を付き合わせる。きっと温もりがじんわり染透るのがたまらないのだろう。湯尾は変えるよ?と言いながらラヂオの局を弄る、いち、にい、多子がそれを上半身をねじってまで目で追う。何度も何度も変えるからなにかしらと想って見上げると、湯尾がうっすら笑って多子を見ていた、「可愛いつらしてやがる」そう言うのだった。

「また来たんですか」お兄さん、と入ってきた依子がいらいらしているように見せかけながらそうならそうと言ってください、と階下へ下っていった。だってねぇ、という風に湯尾を見上げると「依子は貴方を気に入っているね」そう言って笑うのだった。照れてこそばゆい気持ちになり、湯尾の背筋を指でなぞると「おうッ」と言ってやめなさい、と押し倒された。

依子が入ってきて「まぁ」と驚いていた。匂いで分かった、ココアを持っている。

この家の人は帰ってくるのが遅い。早朝、湯尾の体温で目覚めた多子は少しあくびをして、その後湯尾の寝顔を楽しむ。唇をつねってみたり、頬に接吻してみたり、していると湯尾がやっと目覚めて「悪戯するない」言うのだった。多子は嬉しくなって微笑む。

8時ごろ「学校だ」と言って湯尾は出て行く。湯尾は学校の教師なのだそうだ。10時ごろ「行って参りますわね」と言って依子が出て行く。どこに行くかはいつぞ知らない。

依子は誰に「行って参ります」と言うのだろう。この家にはもう二人しかいないのに。以前階下に降りて見たら、仏壇に湯尾によく似た女の人と依子によく似た男の人が座っていた。

彼らは微笑んでいたのでなるほど、この家は幸せなのだな、と納得して二度と階下には下らなかった。

階下は多子のような者が行ってはいけないのだ。多子はそう想っている。

依子が猫を拾ってきたことがある。猫は小さい老いぼれたしわくちゃで、多子を見てふーとため息をついた。うなりたいのは山々なのですが。そう言っているようだった。多子は笑って怖がって湯尾の背中で縮こまり湯尾を盾にしていたが、湯尾と依子がいやに真剣だから、笑うのをやめた。

「もう死ぬな」湯尾が言った、依子がそうですね、と少し微笑みながら言った。猫を見て。「そら、ミルクですよ」笑う依子が酷く空っぽであったから、多子は焦ってしまってでも何も言えず、ただ依子を見ていた。

猫は半刻で死んだ。ようやく楽になれましたねぇ。依子のひざの上で死んだ。依子はたいそう優しく猫を撫でていた。

そう言えば、依子も湯尾も泣いたところを見たことがない。

人間は泣くものだと知っている、人間ではないのだろうか。

猫の魂は依子の唇をぺろりとなめて、一寸頭を下げてのぼっていった。湯尾にそう言ったら天国に行ったのだ、と言っていたがそれは違うと想う。多子は天国なぞたいてい分かっていないが、猫はただ空に還ったのだ。

依子の空洞と湯尾の空洞が、心にぽつかり空いていることをふと知った。

「お前が来てから兄様は随分元気になりましてよ」憎憎しげに笑って依子が言う。猫をふたりで埋めた時。依子は髪をきつくいわいて、頬を紅潮させて穴を掘っていた。猫の体を多子は抱き、依子の吐息を黙って聞いていた。

「兄様」は学校に行った。

汗が依子の胸を落ち、鼻水が依子の頬を伝って「ああいけない、暑いですね」そう依子は言う。「死んでも、土に還れば幸せでしょう」

そしてあなたは死んではだめよ、と、真剣な声でぽつりと言った。

その後で、依子は自分の子分の花を摘むんで猫にお供えをしていた。時は夜に入ったばかりだった。湿気を十分に含んだ暑い風がもおもおと吹いていた。それを多子は屋根で見ていた。瓦の屋根に蜘蛛は居た。月がまっすぐに光っていた。

「依子はお前が来てから随分楽になったらしい」そののち布団に潜り込んで股に足を突っ込んできた多子に、湯尾が言った。

死んではだめよ、という意味を、しばらく考えた。

依子と湯尾と三人でいることが好きだった。依子が恋をしたのは猫が死んで半月ばかり経った頃だ。三軒前の茶屋の息子だよ。湯尾は嬉しそうに話し、多子はそれが嬉しくて黙って聞いた。あの子はいい子だ。依子も楽になるだろう。楽というのが何か分からないけれど、依子が幸せになるんだったらそれが一番だ、と多子も想う。

茶屋の息子が怪我をしたと言うので、依子が「泊りがけで介抱に行ってくるわ」と出て行ったのは3日後、随分早い展開に湯尾と多子はにやにや笑って「何をにやにや笑っているの」と依子に怒られた。

昼はよかった
いつもの通り独りだ。

夜になって湯尾が帰り、ああ、依子は居ないのか、と言った。

布団に入ってからも、随分長いことふたり、起きていた。かち。こち。と、時計の音がやけに寒い。多子は湯尾にぎゅうっとしがみついた、湯尾が苦しいよ、と言いながら多子を抱きしめた。

湯尾の温もりが辛かった。

ふ、と思い立って昼依子を訪ねた。

「まぁいやだ」依子はいつも通りの顔で茶屋の二階で微笑んでいた。「そんなことを言うと帰りますよ」「真剣なんだ、依子ちゃん。僕は君が好きなんだ、愛しちまっているんだよ。結婚してください」「もお」くすくす笑う依子を見て、多子は心があったかくなった、不意に依子が黙った。

「愛してください」
「当たり前だ」

「違うの」

死なないでください。

真剣な目で、依子。

…それが君への愛か。

茶屋の息子が一寸黙って答える。

「死なない」


多子は胸をいっぱいにさせて、白木家に帰った。

「この頃寝てばかりだな」
ふと、気がつくともう葉が降り始める季節になった。
依子は来週結婚する。頬を赤らめてそう言った依子と、頭を下げた茶屋の息子に、酷く湯尾は狼狽しながら嬉しがっていた。

多子はこの頃深く眠い。

「うん、まぁ、眠けりゃ眠ればいいさ」
湯尾はうんうんと分かったように言う。その目に少し不安がよぎるのを見て、多子は微笑んだ。

森で、深い場所で、金夕の花が散ろうとしている。

9月24日、依子は結婚式を挙げた。





多子は泣くに泣けず、大勢が騒ぎ惑う席で固まっている湯尾を連れて、外に出た。「早く戻らないと」湯尾が言う。それはうそだ。湯尾は怖がっている。

すぐにすむ?

そう言う湯尾に頷き、林から森へ向かった。夕刻。赤焼けに焼けた景色の中、林は金に溜まり湿気に染まった色をしていた。風がそよとも吹かず、林の葉々は重なり合いぐったりしていた。真ん中の広場に、金夕の花はあった。

「愛してるよ」

言うと、湯尾が黙ってうん、と言った、目じりがふるふる震えていた。

「僕はもうい「待ってくれ」

途中で言葉をさえぎり、待ってくれ、待て、え、待ってくれ。そう言う。

優しく湯尾を抱きしめ、口付けをした、途端に嵐のような風が吹いた、突風だった―…倒れる多子を湯尾が支える、多子、と叫ぶ湯尾に多子は精一杯笑いかけ、泣いて、と言った、一言、泣いて。と。

貴方の中にある空洞を
どうやって埋めればいいか
僕は知らない

その穴は

もう埋まらないかもしれない

でも湯尾

湯尾

僕は貴方を愛している

心から愛している

泣いて。

だから、泣いて。

泣いて。悲しいときには、どうぞ泣いて


多子の姿がいきなり、かき消えた。
自分の手のひらを、信じられないと言った顔で湯尾は見つめた。

「あ、あ」

獣のような声が漏れた、空に、真っ赤に降る、金夕の花びら。

真っ赤に。

真っ赤に。

ねぇ、依子は
幸せそうだったねぇ。

声が
聞こえた気がした。

湯尾は絶叫してやがて声が途切れる頃、涙がその頬に伝った。頭を抱えて湯尾は泣き出した。肩がぶるぶる震え、嗚咽は長くとどまらず。その体に金夕花が降る。




「湯尾」
何時間経っただろう。呆然と泣きながら座り込んでいた湯尾に、多子は声をかけた、驚きばっと見上げると、小さな、

ほんとうにちいさな、

多子がたっていた。

「愛し合うのはこれじゃ無理だねぇ」


夜道を歩きながら、湯尾は何度も何度も、肩に座る多子を小突いた。芽が出て戻れるならそう言え。怒りの声で何度もそう言う、その度に多子は笑いそうになって謝った、湯尾が泣かないのが悲しい。感情が、

死んだ時、

湯尾も依子も、生きることを止めたのだろう。

湯尾が泣かないのが悲しかった。泣いてほしかった。心、もう一度、分かってほしかった。

見上げると林を金色に沈ませる月。ゆらりと光。僕はいつか人間になるだろう。長老にお願いをして人間になるだろう。湯尾は僕と結婚するだろうか。

幸せとか、悲しみとか、不幸とか。

湯尾。

心があるから、


やどる物。

湯尾。

愛してるんだぞ、分かっているのか。湯尾が怒って言った。