距離

けっして
縮まらない
なくならない
その きょりは
平行線に のびる 線路のように
けれど
たしかに となりあい
どちらが かけても
生きてはいけない



彼の目を見ていると
ふとした瞬間
なにもない世界がひろがって
私を映し出す
それが、たまに怖い

彼の名前はカンデンカンといって
自分でつけた、と
簡単にわらって、私にいった

だれもつけてくれなかったから、と
だから私は「そう」とだけ言って、
それから何年も彼と暮らした

たまに私が
なにがどう、とか
他愛もない話をして
それで「ひどいよね」と笑うと、
彼も、うん、とだけ
いった



ある日、昼の木の下で
傘を慰めるおっさんに出会った
おっさんは無精ひげをたくさんたくわえて
赤い、ぼろぼろの
ほねが飛び出した傘に
「おまえも、としをとった
そろそろ、つかれたかい
でも、まだまだわかいやつには
まけんさ、なあ
ほきょうしてやれば
つよくはなる」

おっさんの背中には
たくさんの小雨が降り注いで
木の上にはたくさんの桜が咲いていた
桜は雨に重たく揺れて
しずしずと、それでも顔をあげていた

「ともみ…」
突然、おっさんが
突っ伏して泣き始めた

私は、あのように泣く人を知らない
あれほどひどい、涙を
いままで
みたことがなかった

おっさんは、
笑いながら
だけど、とても
とても、とても
ぼろぼろぼたぼた
大粒のなみだをたれながしていて
たまに、音のない声で
痛みをこらえるように叫んで
 泣いた
みっともない
あわれな
哀しい姿

私は戸惑い、おそれ、
ほんの少しの畏怖までを感じて
音をたてないように逃げた
心臓が、家に帰りつくまでどきどきして
目がぐるぐるまわった

けっして笑えない
だけど、無様で、みっともなくて
くるしい
小さなおっさんの涙は
わら半紙にぽたっとたれた
朱色の点のように
きえなかった

「どう、思う?」
家に帰って、どきどきしながら
彼に聞いたら、久しぶりに彼は無言になった
それから少ししてから、
「いろんなことを考えられるよ
でも、ほんとうってのは
その人に聞かなきゃ、わからないだろうから」
だから知ることはできないね

ふ、ふ、ふ 彼が笑ったら
水槽の中の藻がゆれた
こけ藻、といって
彼が数年前にもってきたそれは
「いきているんだ」という説明だったけど
ただの藻に見える



それから、すこしして
当時の私の恋人をとって
あげく、私を仕事場から
 じつにみごとなてれんてくだで
おいだした、彼女に出会った

彼女の名前は桃子と言って
あの頃、きれいにウェーブしていた髪の毛は
無造作にたばねられ
きらきら光るピンクのつめには
真っ赤なはげかけたマネキュアが
べっとりついていた

「元気?」

彼女は言った

うん

私は言った

それから、彼女はオレンジジュースを
私はパインジュースをのんだ

彼女は喫茶店が寒い、とか
ウェイトレスの態度が悪い、とか
さんざん悪態をつきながら
オレンジジュースをひとくちのんで
「ぬるいんだけど」と、怒った

それから彼女は、
彼女をあいしてしまった人が居て
彼女はそれを
うまいことして
警察につかまえさせた、といって
「それで、わたし
 人を、そういう風にするの
 もう、10回目なの」
微笑んだ、そのほほに
可愛らしいえくぼができた



昔「カンデンカン」という名前で
ちいさく笑いながら「かわいいと思わないですか」と
聞いた彼は
そのあと、親に怒られたのか
私に謝りに来た。

「うそをつくなと」
それで、そのほほに
もうまるっきり、わかりやすい
痣があったのがいやで、
それに触ることもできず
私は「そう」と
あとなにか、つぶやいた

どうしていいかわからなかった

私はもう、その頃
まだ彼と会ってまもないころから
すべてから逃げたくて
逃げたくて
仕方なかった

彼の本当の名前は
とてもちんけな、へんてこな名前で
いまでもその名前を、
彼は誰にも言わないし、
私にも、きっぱりとした態度で
「いってはならない」と、禁止している

彼が18になるころ、彼の両親が
彼を残していなくなったことを聞いて
なんとなく、ほっとした
けれど、たぶん、きっと
彼は、ほっとすることも
できなかったんだとおもう
誰も、彼を助けることがない時間に
彼は、もうずっと
ずっと、昔から、ずっと居たんだろう



それでね
その、
じうちゃんは
桃子が、すきだっていうのぉ
おとこって
ほんと
かんたん

だから、わたし
いっぱいすきなことしてあげたの

いってほしいことも
やってほしいことも
ぜんぶしてあげたの

もうね
メロメロで
私に
しがみついて
ないたりね きもちわるぅい うふふ
うふふ

それで、
ふったの
かんたん
かんたんよお
それできもちわるいんだよお
って さけんでみたの
そしたねえ
桃子のおもうつぼ
もうほんと、
あんのじょう、ね

ああ
ね、
あはは あはは



はじめて付き合った日、
彼は「ぼくは
知ってると思うけど」と
腕をまくってみせた

そこには、くっきりと
深く、まだ赤い
いたいたしい傷がついていた



「しね、しね、しねって
でも、そうされるのは
わかっていたから、
警察は、もう
よんでたんだあ」



一晩中、泣く私の背中をだきしめて
彼は、じっと
なにもいわず、ただ、
私のうしろにある
水槽をみているらしかった

それで、私が話すたびに泣いて
泣くたびに話して
そのたびに、背中をたたいてくれた

私がようやく泣きやんだ時に
「あの水槽に、なにか、いれようか」といった

そう、あの水槽の中に居た
赤や黄色のちいさい金魚は
私が失意にうちのめされ
激怒し、ごうごう叫び
何度も、心のなかで
すべてをののしるあいだに
全滅してしまったのだ

彼は次の日の朝、ぷらっとどこかにいって
藻をもってきて
「こけ藻だよ、いきてるんだ」と
うれしそうに、水槽に入れた

この人は、と、思った

この人は



あの、つれていかれるときの、顔!
桃子ね、笑って見せたよ
いったの
「ごっめーん、警察よんじゃったああ!」

あははははははは
あははははははは
あははははははは
あははははははは
あははははははは



帰り道は、雨があがりたてで
コンクリートのてかてかしたところに
上の方の、蛍光灯や、ビル明かりがうつっていた

とてもしっとりと、水にぬれて重たくなった桜の花と
コンクリートの光の上に
べったり力なくおちた花びら

もっていた黒い傘で
その花びらをきゅっとしたら
花びらは、きゅっとちぢこまって
よけいみすぼらしくなった

彼女の笑顔が、どこか
壊れた傘を前に
泣いたおじさんの笑顔に思えた



帰ったら、彼は水槽をみながら
ホットミルクをのんでいて
おかえり、ひどい顔だよ、と、
私を見上げてわらった。

それで、コートを脱いで
私もホットミルクをいれながら
 牛乳を電子レンジで3秒
彼に「今日あのこにあったよ」と言ったら
彼は面白そうに笑った、
ああ、あの子
なんであったの?

なんでかなぁ
わからない

かごにあったバナナをむいて
食べながら言う

あのこは、どうして
ああなんだろう

「……聞いてみないとわからないことは
 多いよ」

それで彼は目を水槽にもどしたので
私はたっぷり彼女の話をした
最後に、
私が彼女の笑顔をはなすと

そう、といった

窓の前の黒い闇の中に
電灯のひかりが、ひとつあって
また降り始めた雨が
それをゆらゆらと
ぼやかしている

まだ、みえないけれど
ぱらぱらと、雨の音がし始める

「たくさんふるね」

彼が言った

「彼女は幸せだと思う?」

私は言った。
彼は私の目を見て

「しあわせではない、と思う
けれど、僕が思うだけだよ
彼女に聞いてみたら、しあせだというだろうね
それも、僕が思うだけだ」

「あなたのそういうところが
 たまにきらいなの」

「知ってるよ」

ふ、と
彼が笑った



帰り道に、彼女が言った
「わたしね あなたが すきだったの」
急に、顔をゆがませて
笑った、
まるであのときのおっさんのように
泣いた顔で 笑った

「すきだったの」

だから、私も言った
「知ってたよ」

それで、もうひとついった

「それでも、あなたが 嫌い」



雨の音の中
電気を消すと
外の桜がぼおっとひかって
それがなにもいわなくても
わかっているように
こちらを見返すから
すこし、こわい

「ねえ」

「うん?」

「わたし、あなたが、すきできらい」
「しってるよ」

闇の中で彼の顔は見えない
笑っているんだろうか
泣いているんだろうか
それとも、笑いながら泣いているんだろうか

彼の顔は見えない

あなたがすき、と
もう一度いったら

うん、といったあと
ぼくも、きみがすきだ と

いってくれた

 ああ、こういう気持ちなんだ と
 思った