「あ、しまった。」と思ったときにはもう遅く、
ネコは汚水をはらんでぱんぱんになっていた。
育てるのは難しいのに、壊れるときはいつも一瞬である。
「あーあ、」大仰にため息をついて、指で腹を押してみた。
ずぶり、と手首まで沈む。
此処までとは思わなかった。
暖かいような冷たいような何とも言えない不思議な感覚が手を包む。
腰元にいたミミンガトリがあうっあうと叫んだ。
ご主人様の一大事とでも思ったのか。
手を引き抜くとき、ちょっとの抵抗があって、イヤな気持ちになった。
「やっちゃたよ、」
微笑みかけると、解っているのかいないのか、
トリは首を上下に動かして、うん、うん、と頷いた。

管理所に行くと、一枚の封筒を渡された。
「よくくるね、」
と管理所のおばちゃんが笑いかけた。
3月にしてすでに僕は此処の常連だ。
「またおいで。」
ちょっとイヤですと呟くと、おばちゃんは軽快に笑った。

封筒の封を開くと、つんとミントの臭いがした。
この間は茶色の紙袋を渡された。
そのときもミントの臭いがした。
その中にネコが入っていた。
突然、おそってきた思い出に、僕は目を瞑って耐えた。
ちっともなつかないで爪を立ててばかりいた。
あんな奴でも壊れてしまえばおしい。
もっと可愛がってやればよかったと思う。
動物が壊れるたびにそう思う。
あうっあおうとトリが鳴いた。

封筒の中に入っていたのは小さな芋虫だった。
手のひらの上で転がすと、よちよちとちょっと身じろきした。
トリがその腕を器用に使って
(僕はこいつが動くたびになんて器用なんだと思う)芋虫をつついた。
ギャッと音がして芋虫は死んでしまった。
「あーあー」僕は驚いてトリの頭を叩いた。
「やめてくれよ」
そっと触るとプリプリした皮膚が手を跳ね返す。
芋虫は壊れてはいないようだった。
あおっあおとトリが鳴いた。
「喜んでいるのか?」
笑いながら芋虫を電子レンジに入れて暖めた。
チンッと軽快な音がして芋虫が出てきた。
「コンニチハ、今日ハ ドウモドウモ。」
芋虫はシルクハットをかぶって、
ピカピカの靴にぱりっとした海老服を羽織っていた。
手にはステッキまで持っていた。
びっくりして見ている僕らの前で、軽快にタップダンスを踊り始めた。
「ひゃー調整を間違えたみたいだ」
芋虫のタップダンスは見事だった。
全部見終わってから僕たちは芋虫を電子レンジに入れた。
入れるときに芋虫がちょっと暴れたのが歯がゆかった。

***

芋虫が元どおりになって出るころに、サアッと音がして、雨が降ってきた。
雨は暗く、光を遮り、世界を死海にする。
カーテンを無愛想に閉めると、
鳥が不機嫌にグギャオと鳴いた。

キンコーンと音がして人が来たことをチャイムが告げた。
こんな雨の日に人の家を訪ねるなんて、
イカレチマッタ奴に違いない。
僕は十分警戒しながら、ドア越しに「誰ですか」と訪ねた。
ドンドンドン、と強く三回、ドアを鳴らして、聞き覚えのある声が大声で叫んだ。
「おい、開けろ」
「何だ、君か」
鍵を開け、戸を開くとサアッと雨音が強くなって、
少しの水とともに、黄色いレインコートの奴が入ってきた。
「フウ、やれやれだ。」
「早くドアを閉めろよ。」
僕は雨が嫌いだ。
僕だけではなく、この星に住む住民は大概雨が嫌いだ。
たいてい狂っていると思っていたが、
奴はやっぱり狂っているんだ。
ヒタヒタと水滴を滴らしながら上目使いにこっちを見て、
「決まった」と言った。
いくら珍妙な奴でも、僕は追い出すわけにはいかない。
言うなればこの仕事も、この家も、そして鳥も、
奴の力で譲り渡されたものだ。
「なにがだい、」返事を聞く前に僕は台所にいって、もてなしを探した。
奴は何の気兼ねも無しに部屋に入っていったらしい。
鳥にヨォと挨拶しているのが聞こえた。
鳥の返事は聞こえなかった。

あいにく極上の苔は品切れで、茶色の萎びたのしかなかった。
すりつぶして、出てきた液体をポットにかける。
コトコト音がして、すぐに沸騰し始めた。
熱く熱くするのが奴の好みだ。
「君をこんな雨の中に駆り立てたんだから、
よっぽどすごいことに違いないね。」
先に桃の切ったのをお皿にならべて、もっていくと、
奴は鳥の首を小脇に抱えて抱きしめている最中だった。
苦しすぎるのか、鳥はなんの声も出せずにハタハタと力無く腕を動かすだけだ。
その瞳が助けてくれと言っていた。
「止めろよ、苦しがってるだろう」
ちょっと怒ったように言うと、
奴は照れくさそうにこっちを見て、
「愛情表現だよ」と言った。
「何が起こったのか、聞かせてくれよ、こんな雨の中さ。」
「ァ、決まったんだよ、決まった。」
奴はそっと鳥を放すと
(鳥は何とかもがきながらも奴の戦闘範囲から離れた。)
特に反応を見せずに桃をかじった。
極上の桃だったのだが、
「何がさ」
ぺいっと台所から僕の好きな音がして、
もてなしができたのが解った。
僕らは何故か、暫くにらみ合ってから、
先を争うようにして台所に走った。
「いいって!」
「遠慮するなよ!」
いつもこうだ。
奴はこうと決めたら人の意見なんて何一つ聞かないのだ。
走ってるその振動で、芋虫が驚いたように転がっているのが、目の端に見えた。
台所は密の焦げた甘い香ばしい匂いが広がっていた。
僕はこの匂いをかぐたびに、何故か金色を思い出す。
何故か悲しい月の金色が頭にぱっと広がるのだ。
速さでは僕のほうが勝っていたのだが、
一瞬鮮やかな匂いに躊躇してしまったのがいけなかった。
奴は喜喜として、僕の脇からジャボッと指を熱湯に突っ込んだ。
「ぎょ」
ついてきていたのか、隣で鳥が殺されるような音を立てた。
ホルマンゲンの体は木でできている。
僕は良く知らないけど、「香木」とか言うものだ。
泥水だろうが、なんだろうが、液体と名のついたものにその体を浸けると
何故かそのどれでもが甘露になるという。
僕はその話を聞いた時、眉唾物だと思った。
そんな事じゃ、うかうかお風呂にも入ってられないと言ったら、
奴は見事な微笑みを描いて僕を抱きしめた。
(苦しかった。)
昔の話だ。
幾度も「奇跡」を見るたびに
僕はそれを信じるようになった。
しかし僕には、厄介な真実だった。
「もてなし」を作るたびに奴が体を一緒に煮られたがるのだ。
「自分も美味いと思うし、この方がいいと思う」と言われたが、
もてなすつもりでだすお湯に客が熱っせられるのを、喜ぶものがどこにいようか。
何回も頼み込んで近頃やっとそれをしなくなったので、
油断していたのがいけなかった。
僕の心とは裏腹に、
萎びた茶色の飲みものは見る見るうちに
「これがそうか、あれなのか」と思うほど美味そうな匂いをたて始めた。
ぐっとつばが沸いてきたのを隠して、
「もう止めろよ」と僕はいった。
「もうちょっと」
奴は何処かを見ているような夢中になっているような
(煮られる時はいつもそうだ)
そんな目でゆっくりとポットをかき回した。
かすかに、奴の指から軌跡が起きる。
鳥が「ぎょ」っと鳴いた。

冷やしタオルで指をくるんで、
奴は美味そうにもてなしをすすった。
「だから嫌なんだよ、痛いんだろぅ?」
「そりゃそうさ、神経かよってんだから。
あんな熱湯に入れて痛くないわけがないだろう?」
僕はせえいっぱい顔を顰めたつもりだが、
あんまり上手くいかなかったかもしれない。
それと言うのも、この飲み物が上手すぎるせいだ。
奴の指と煮込んだ飲み物。


「……なにが決まったのさ。」
暫く雨の音だけが部屋に響いていた。
奴も僕も話をしなかった。
時折 鳥が、不機嫌そうに舌打ちをした。
口を切ったのは僕の方からだった。
「……お前の恋人がさ」
「え?」
一瞬信じられないことを聞いて、僕は耳を疑った。
「俺に恋人なんていないよ。」
「イヤ、だからさ、」
奴は嬉しそうに笑った。
「お前の恋人になる人が決まったんだよ。」

***

その夜更けは月が綺麗にかかっていて目に眩しいくらいだった。
芋虫を水浴びさせて
後の世話をミミンガ鳥に頼むと
僕は金色の石をポッケットに入れて外に出た。

外には待ち受けていたよと彼女が微笑んでいた。
待たせたねと僕が言って二人は歩き出した。
特に行く当てもなく押し黙って何処までも歩いた。
黒曜石の彼女の髪が金色にサラサラ揺れた。

一目見たときから僕は彼女が嫌いではなくなっていて
奴がどんなに苦労して彼女を見つけてきたのかが解ってしまった。
彼女はムンクで言葉がなかった。
でもそれはヒルである僕にはもったいないくらいの地位だった。

しばらく行くと、彼女は音もなく僕のこぶにそっと触れた。
愛おしそうにそれを撫でると
長いまつげを呼吸するように閉じて、
開いた。
彼女の目の中で月が踊っている。

そして突然の哀しみが僕を襲った。
余りにも突然で急激でそして強かったので
僕は言葉を出せなくなった。
彼女の呟きのような仕草に
ああ、ただ呼吸で応じていた。
(哀しみは僕の心を浸してその胸の痛みは傷のように少し不快で
少し心地よかった
しかし哀しみはそれでも重く
引きずるのにやっとで
ともすれば僕はそれに押しつぶされそうになっていた)

彼女は僕が黙り込んでしまったのを勘違いしたらしく
ヒュッと息を吸い込んで「ごめんなさい」と瞳で言った。
僕はそれでも言葉を出せずに
彼女はフッと顔を伏せてしまった。
僕たちは気まずく夜道を歩いた。

月が上限に係る頃、
唐突に彼女が僕の腕を引いて止め、
顔を真っ正面から捕らえた。
僕はぎょっとして思わず「ごめん」と呟いていた。
彼女はその群青色の瞳に澄んだ涙をヒタヒタとためていた。
「そんなつもりじゃなかったの」と言葉のない彼女が言う。
それはともすれば現実の言葉よりも危うく痛い。
「あなたすきなのよ」
彼女は言葉を隠すことも飾ることも知らない。
何の曇りもなく鋭く尖って僕を殺しそうになる。
僕は彼女の目から瞳をそらして
ごめんごめんと呟きながら彼女の手を握った。
暖かく柔らかで雛に似ていた。

「君のせいじゃないんだ。」
「ただ、なんとなく、急激に、言葉を。」
無くしてしまって。
そう言おうとして僕は僕がどれほど愚かなのかに気が付いた。
今更のように。
彼女はムンクなのだ。
「……ごめん」
哀しみの残留と自己嫌悪で僕は狂いそうになった。
それ以上、何も言えなかった。

無言で僕らはそのまま何もしなかった。
ちっとも動かずにずっとそうしていた。
彼女の小さな手がやけどしそうなほど腕の中で熱くなっていった。

***

その夜僕は夢を見た。
小さな蛇が道に迷っている。
暗闇の中で青白い球が蛇のまわりを、ふかり、ふかり。
浮かんでは消えていく。
蛇は白く鱗のいちまいいちまいが
光を浴びててらてらと光。
浮かぶ球に惑わされて蛇は出口が見えない。
本当は見えているのに。
本当は見えているのに。

気がつかない。

蛇が道に迷っている。
暗い道に迷っている。
蛇のまわりを蒼い球が飛んでいく。

ある朝起きてみたら冷たく縮んだ芋虫が
かごの中で丸くなって転がっていた。
僕はそれを小指でちょっとつついて現実かどうか確かめようとした。
芋虫はなんの弾力もなく指でつつかれた分だけ凹んで
ゆるっと揺れた。

腐敗ではない
「終わり」が訪れたのだ。
「こんな事って」
僕はうろたえて台所を行ったり来たりした。

外に出ると相変わらず太陽は元気で
ギラギラした容赦のない光を道に浴びせかけていた。
光は土と草を容赦なく射って、
ついでとばかりに僕をも攻めた。
辛い一日になりそうで僕は目をしばたいた。
影が濃い。
吐き出す呼吸さえも熱に浮かされたように熱かった。
僕は麦わら帽子を目深にかぶって
茶色く冷えた封筒に芋虫を入れて
道を歩いた。


風景がとぎれとぎれに僕の側をすぎていく。
赤と金の風船を追って走り去っていく子供達
小さな白い服を着込んで「人々に優しさを」と叫んでいるイタ。
風に揺れる木々、森。
公園を通りすぎると噴水に蒼い水を流して
ジュースを売っているハルタを見た。

…愛しい…

それは不意に聞こえてかき消えた。小さな小さな呟きだった。
とても微かで優しくて、冷酷な声だった。
芋虫の茶色の封筒から聞こえたような気がして
僕は顔の前にそれをあげた。
声はことりとも聞こえなかった。
空耳だったのだろうか。
(干涸らびた芋虫の死体が最後の吐息を吐いたのだろうか。)
袋は少しなま暖かくて手が汗ばんでいた。

(耳にまだ残っている)
声が消えない
(すこうし、彼女の声に似ていた)

***

見たときは一瞬だった。

それでもその風景は、心に焼き付いて離れないまま

小さな棘が皮膚の下に入り込んだように

僕をちくちくと、ちくちくと責め立てる。

宮殿は太陽の光を浴びてからからに乾いていた。
白さが銀色に反射して
目を細めなければやり過ごせないほどだった。
おばちゃんに会おうと角を曲がろうとして
僕はふと物音を聞いた。
とても荒々しい音だった。

足音をそっと消して音のする方へと向かっていった。
何故そんな気配を消すような事をしたのかは解らない。
心が飛び上がるほどばくばくと脈打っていた。

とても熱いかと思ったら
その柱は随分冷えていた。
ちょうど宮殿の影になっていたせいだろう。
そこから身を隠すようにそっと庭を盗み見ると
一人のホルマンゲンとムンクが互いをにらみつけていた。
ムンクの腕をホルマンゲンがきつく握っている。
きつすぎて、其処から先は色が抜けたように真っ白だ。
ムンクは微かに震えていた。
ムンクの赤いサクランボ見たいな唇が濡れてつらりと光った。
まるで何かを言うように。
僕はまっすぐに立って世界が揺れるのを感じた。
血の気がざっと下に落ちるのを聞いた。
あんなに暑い日差しももう感じない。
ただ心臓だけが、
心臓だけが
冷酷なキリで一差しされたみたいに
ぎゅうっと痛かった。
「逆らう気か」
奴は口を曲げて笑った。
「お前には無理だよ」
あれは誰だろう。
僕は見たことがない。
あれは誰なんだろう。
奴の顔をしたあれは。
彼女はもう、ハッキリと解るぐらいにガクガクと震えていた。
握られていない顔も、血の気が引いて真っ白だった。
赤い唇も透明な瞳も色を失って震えている。
風が吹いて庭に生い茂っていた木々達をざわざわとゆらした。
この痛みが続くなら僕はきっと倒れてしまう。
そんな気がした。
心臓が痛い。
彼女の瞳が一度大きく揺れて透明な水を頬にすっと流した。
奴は瞬間、腕を振り上げ彼女の頬に勢い良く振り下ろした。


さっと白い頬が赤く染まって
勢いに少し体がよろけた。
彼女の長くそろった黒曜石の髪が体に合わせて揺れた。
時が細切れになったように
一個ずつ、一個ずつ
僕はそれを見ていた。

僕はそのときから呼吸が出来なくなってただ心臓がとにかく痛くて胸の辺りの服を掴んだまま
柱のように側にある柱のように直角に立っていた。


「なんで…」
誰かが僕の声で小さく小さく呟いた。
唇がかさかさだった。
彼女はもう声のない嗚咽をあげて泣いている。
捕まれていない方の手で頬を押さえながら泣いている。
小さな子供のように泣きじゃくっている。
嗚咽をあげるたびに髪が、サラサラと揺れる。
奴はまだ彼女の手をギュッと握っていた。
でもその手はもう緩まれていた。
奴が何かを言った。
彼女がかぶりを振っていやがった、
奴はあいてる方の手で頭をかいて
そして、
そしてそっと彼女を抱きしめた。


僕は先を見ないで逃げ出した。
何がどうしてこうなったのか解らない。
柱も宮殿もぐらぐら揺れて
僕の逃げるのを邪魔した。
ぐらぐら揺れているのは足の方だと気がついたのは
自宅に戻ってベッドに入っても
足がガクガク揺れて邪魔だったせいだ。
何も言わず潜ったまま出てこない僕を見て
ミミンガ鳥が「グギャオ」と啼いた、
僕はまだ芋虫の入った袋を握りしめていた。

***

今夜も外は月が綺麗で、
蒼く、蒼く煌めいていた。
噴水の水が白く、銀色にしぶきをあげる。
しぶきを少し浴びながら
僕らは黙ったままでいた。

彼女は何一つ変わらなかった。
頬も目尻もあんな事があったなてみじんも感じさせなかった。
僕はどきまぎしておろおろして全く普通じゃなかった。
彼女がとうとう僕と喋るのを止めて
黙って僕の瞳を見た。
「何を見たの?」
微かに揺れる睫の影がそう言っている。
不安にかげる紫の影。
こんな時僕は全く役立たずの出来損ないだ。
嘘をつく器用さも、問いただす勇気も僕には持ってなかった。
そばに咲く金木犀が夢と真珠に似た匂いを放ってる。
握っている彼女の小さな手が、ただ、熱い。
「つ、疲れた?」
小さく彼女は頭を振って、僕の腕を振りほどいた。
そのままひるがえすように走っていってしまった、
黒くゆらめく、長い髪。

僕は全く何も出来ずに其処にいた。
噴水の水が僕の体から熱を吸い取っていった。
彼女が行ってしまった後をただ見つめていた。
僕は全く無感動でどうしたのか何も感じなかった。
きっと心が死んでしまったんだ。
さっきまでの焦燥は何処へ行ったのか。
ただ、手が熱いと思った。
「いっちゃったね」
金木犀が浴びせかけるように香って、小さな冷徹な声が響いた。
小さな固まった石鹸の様に白くて冷たい声をしていた。
何の重みも持たずにただ事実だけを告げていたので
僕は変なことだけど、ほっとした様な想いがした。
「良いの?」
金木犀が揺れて、白い少女が現れた。
濃厚な花の匂いが夜空に立ち上がる。
少女は金の瞳を水のように透き通らせて、
白い布を無造作に体に巻き付けていた。
白桃ようなみずみずしい唇が、
何の重みも持たずに開かれる。
「恋人なんでしょ?」
1つの言葉がこんなに綺麗に響くのを僕は聞いたことがなかった。
その言葉にはその言葉の意味しかなく、不純な感情はいっさい混じってなかった。
すとんと、僕の心にそのまま、落ち着いていった。
「いいんだ」
少女のように喋ろうとしても上手くいかず、どうしても感情が言葉を重くしてしまう。
僕は自分を恥じた。
「いいんだ…彼女は…」
「あなたを愛してないものね」
ぎくり、と僕は体が反応するのを感じた。
少女は金色の睫を金色の瞳にしばたたかせた。
瞬くたびに金木犀の香りが香るようだった。
ふと、僕は奴が指をお湯に入れて、金色の軌跡が渦を巻いていくのを思い出した。
そして気がついた。
少女は何にも属していないことを。
奴がホルマンゲンであるように、彼女がムンクであるように、僕がヒルであるように。
全ては全てに依存することが決まっているのに、
少女は僕の知ってるどの属性にも当てはまらなかった。
まるで密造されたお酒のように。
少女が自由であることに、なんの捕らわれもないことに、激しい嫉妬がわき上がってきた。
胸が焦がれるように、羨望した。
「キミは…」
金魚の様に僕は喘いだ。
手の中で、小さな汗がしたたっていく。
「君は…なんなの」
こんな少女はありえない
「ホルマンゲンの恋人よ」
少女はじっと僕を見ながら言った。
くっだか、うっだかつかない言葉が口から飛び出して、夜に響いた。
金木犀が風にのって、香る。
ふふふ……と少女は笑った。
水のようにさざめいて、無邪気に声が転がった。
転がるたびに金木犀の香り。濃厚なその香りに頭がくらくらする。
「あなたいったい何をみちゃったの?」
涼やかな重みのない無邪気な少女。
少女の金色のくねった髪が空気に触れてさやさやと揺れる。
月の光を全て集めたように少女が闇に浮き出ている。
恋人?
「彼はよく、私に唇をつけるのよ」
此処に、と言って少女は白い手で胸をさした。
桃色の爪がやけに綺麗だと、ただ思ってた。
「好きだって言うのよ」
おかしいでしょ
首を傾げて本当におかしそうに少女は笑った。
無邪気で確かめるような笑みだった。
悪魔のように瞳が輝いて、僕を見ている。
「彼は恋人をあんな風に冷たくしたりしないわ」
「嘘だ…」
喉がからからに渇いて、花の香りに噎せそうになる。
からからに渇いた声が少女に突き刺さる前に道に堕ちていく。
「僕のムンクの恋人じゃないか…彼はそうじゃないか」
僕はむちゃくちゃで、自分で何を言っているのか、解らなかった。
苦しい、と思った。
苦しい。此処は息が出来ない。
花の海で溺れてる。花の匂いで。
「そうよ」
何の重みも持たずに、ただ肯定だけの言葉を少女は言った。
軽く言葉は風になびいて、転がっていく。
僕は少女をじっと見た。
その奥に隠されている心を見ようとした。
でも少女は、ただ其処にいて、なんの重みも持ってなかった。
多分、本当にそれだけの意味なのだ。
「なんで……」
僕はこほっこほとせき込んだ。
まるで暗い闇に僕しかいないように、咳は孤独に響いた。
「彼は、私とムンクが同じぐらい好きなのよ」
どっちも同じ重さで。
無邪気に少女が微笑む。
大丈夫?
少女の声が、頭に響く。
大丈夫じゃないかも知れない。
僕はかろうじてそれだけ答えた。
……大丈夫?……
さーーーーーっと風が吹いた。
泣きそうな程、優しくて、包み込むような強い香りが風に乗って波打った。
少女の布と、少女の髪が、なんの抵抗ももたず、風になぶられてゆらゆらゆれる。
「好きだって言ってたわ……」
ムンクも私も。
比べられない、嫌いじゃない。
「君は騙されてるの?」
僕は本当にそのままの意味で少女にそう、聞いた。
少女と同じように初めて発音できた。
「違うわ」
短く言って、金の目をすっと細めた。
「ムンクも私も騙されてなんかいないのよ、
ただ、願ってるだけだわ。
いつか彼が本当に、好きになってくれますように」
くすくすくすと、少女は笑った。
金色の髪が笑うたびにオレンジ色に揺れて、とても綺麗だった。
「彼が憎んでいるのはあなただけよ」
急に少女は笑うのを止めて、ピタッと僕に言った。
指を射されたように、言葉が響いて僕はぎょっとする。
「わからないの、だから彼はムンクをあなたに近づけたのよ」
「え?」
「ムンクを傷つけても、いいと思ったのよ」
うらやましいわ。
少女は言った。
それだけ憎まれてるなんて。それに気づいていないなんて。

そのあとの事は、良く覚えていない。
ああ、だかうう、だか、少女に声をあげたような気がする。
気がつくと僕は夜の中で、金木犀の香りの中で、ただ、独りでいた。
噴水の飛沫を随分浴びてしまったらしく、体が芯まで冷えていたので
凍えながら悴んだ足を動かして、家に帰った。
鳥が、どおしたの?と言うように責めるように僕を待っていた。

***

乾いた風が吹いている。
真紅に染まった太陽が、ピンク色に宮殿を染め上げている。
白い大理石の優しい輝きが人々までも優しく輝かせているようだ。
何処までも赤い景色。
どこまでも優しい景色。
芋虫をおばちゃんに渡すと、おばちゃんは僕の顔を見てごにょごにょと言った。
「前より難しいことが起こったね」
「芋虫の『終わり』が?」
ごにょごにょと言うのでよく聞き取れなかったし、
なにより疲れていたので僕はおざなりにそう返事をした。
「違うさ、」
おばちゃんは笑っていった。
自虐するような笑みだった。
「気づいてないんだね」
僕はもうなんだかそう言われることにうんざりしたような心境だったので、
おばちゃんに無言で手を差し出した。
早く次の動物をくれなくてはならない。
肩を竦めておばちゃんは茶色い一通の封筒を僕の手に乗せた。
今度も小さかったのでまた虫だろうかと思った。
僕は封を開けずに道を歩き出した。
おばちゃんが背中越しに叫ぶ。
「気をつけなよ!!!」
赤と黄色の夕日にその声は、沈んでいくようだった。

僕の足は何にも考えない僕を家とは反対方向に連れていった。
宮殿の奥に。
夕日に暖められた宮殿は肌に心地の良い風を吹かせていた。
桃色の光が白くそびえる冷たい柱に反射して
幾重のも影をいろとりどりに宮殿に落としていく。
歩くたびにその影が躍って、僕についてくる。
ミミンガ鳥は独りで家を出ようとする僕に
ただ心配そうな目をむけただけで、何も言わなかった。
そう言えばミミンガ鳥をくれたのも、奴だった。
笑いながら、就職祝にくれたのだ。
今のこの職についたときに。
その職をみつけてくれたのも、奴だった。

独り、宮殿の中にある巨木の間に寝転がって、奴はいた。
巨木のために開けられた天井の穴をうつろな目で見ている。
小さな草花が巨木と奴を囲むように赤い夕日に照らされている。
絡んだ蔦を夕日の風に揺らめかせ、静かに巨木は歌を歌っていた。
「ろーりーうー、ろーりーうー」
空気のような存在感の無い優しい声が、間にただよっておりかえして響いている。
「探した…」
僕はその声を邪魔したくなくて、小さな声で言った。
奴はちらりと僕を見ただけで、また天井を見上げてしまった。
何も言わずに僕はその隣に座った。
草が刺さって、ちくちくした。
「……お前、ムンクは気に入らないのか?」
しばらく二人で優しい歌声を聞いていた。
それを切り離すように奴は言った。
痛々しい声だと思った。思ってびっくりした。
こんな奴の声は聞いたことがなかった。
「…あの子は可愛いよ」
「じゃあなんで」
そのまま奴は黙ってしまった。何かを探すように瞳がうろめく。
&;「なんで?」
僕は囁くように言った。何かを聞きたかった。それが何かは分からなかったけど。
奴はいつまでたっても何も喋らなかった。
だからと言って何もしなかったわけではなく、
ずっと何かを探すようにうろたえていた。
「もういいよ……」
僕はその姿を見るのがだんだん辛くなって、思わず制止した。
木が、虚ろな歌を歌っている。
風が、音も無く響いて、奴と僕の髪をなでていった。
夕日がだんだん青く、紫色に染まっていく。
巨木の色が赤から濃い紫になって、草花がかげりを帯びていく。
ゆっくりと端から群青に塗れていった。
夜の匂いがしんとふってきた。
静けさの中で巨木の歌が、かすかに響いている。
闇の中でそっと息づく奴の存在を感じていた。

りん、と音がしたように月がでた。
巨木に集められたように月光が落ちる。
その周りだけ浮き上がったように白く輝く。
「きれいだね」
「俺は……」
奴がぎしっと起き上がって僕に向き直った。
僕はその時の奴の顔をもう忘れないと思う。
惨めな顔をしていた。
雨に長時間あたった孤独のような。
「俺は…今度月に行くんだ」
「月?」
僕は呆けたように問い返した。
「そしたら全部捨てられる、
ムンクも、レラも、お前も、何もかも!!」
激昂したように奴は僕の肩を掴んでゆすった。
「全部!!!全部!!」
青くて白い月光が全てを満たしている中で
奴の声だけが異質だった。
内部にくすぶった熱を持っているように、それが吐き出せないように、
なんどもなんども奴は僕をゆすった。
苦しそうに歪められた顔は、僕じゃなくてずっと下を向いていた。
「僕を…憎んでるの?」
はっとしたように僕をゆする手を奴は止めた。
僕はいやに冷静だった。
月で満たされた巨木も巨木の優しくて暗い歌声も奴の荒い姿も
全部見えて。
「憎んでなんか……無い」
奴は手を放した。
その手が重力に負けたように下に落ちる。
「じゃあなんで、ムンクを打ったんだ?ムンクとつきあっていたの?
なんでそのムンクを僕に近づけたんだ?
レラって誰?白い少女のこと?」
&;僕は流れ出る感情のままに喋った。
怒っても悲しんでもなかった。
ただとどめなく、正体不明の感情があふれて、不安だった。
「……」
奴はゆるゆると顔を上げた。
暗い影で、良く見えなかったけど、泣いたような表情をしていた。
「レラに逢ったのか?」
「君はムンクと彼女がすきだって」
「ああ、彼女たちは好きだな」
ふっと笑った。笑いながら泣いているようで、なんだか僕は奴が死んでしまうんじゃないかと思った。
「レラをどう思う?」
奴はため息のように座り直して、月に照らされている巨木を見た。
奴に捕まれていた所が、あざになったように心から抜けない。
そっと僕は肩の布を直して、奴と同じように巨木を見た。
「僕は聞いてるんだ」
うっとうしそうに奴は手を2…3度振った。
その話はもう、したくない、と言ったようだった。
その頃には僕もずいぶん疲れを感じていたので、まぁいいやと奴の話に乗ってやった。
「レラって白くて金髪の少女だろ?」
「ああ…。逢ったと言っていたよ。
まさか本当に逢ったとは思わなかった」
「可愛い子じゃないか」
婚約者なんだろ、と言おうとしてじっと奴がこっちを見ていることに気がついた。
あまりに強い視線なので、僕は見返したまま石像のように動けなくなった。
「ムンクよりも。可愛いと思うか?」
「え?え?」
奴はため息をついて立ち上がった。
「ならお前にやる」
「おい!」
叫んで掴もうとした僕の手をするりと抜けて、奴は巨木から遠ざかっていった。
すっかり暗くなった宮殿の闇に飲まれるように、
奴の姿は消えていった。
ただ僕は、それを見ていた。
ろーりーうー、ろーりーうーと巨木の声が虚しく響いていた。

***

リン、リン、リンと祭りの夜、
りん、りん、りんと夜に透き通る鈴の音が響いている。
消えていく静けさに、上塗りするように、
あとから、あとから、
光る円を描くように、響いていた。
僕は川原に、流れる水に足を浸してぼーっと景色を見ていた。
夜にずっと冷え込んだ草木の音を聞きながら、
紅玉が羽をはためかせて飛ぶ檻を持ち、
イタ、ヒル、イグ…様々な生物たちが、向こう岸を歩いてる。
淡い音と光が、一列になって、りん、りん、りん。
「こんにちわ」
そこだけ切り抜かれたように、
夜に浮き出て少女が立っていた。
黒い川の流れが逆らうように、少女の足にあたって、
渦巻き、流れていく。
光が煌めき、少女の足から金の糸が流れているようだった。
川から突然少女が生えたように感じて、僕は少し驚いた。
「レラ……」
「私の名前を、誰に聞いたの?」
無邪気なままに、首を傾げながら、少女は川を渡った。
じゃぷ、じゃぷ、りん、りん
音が、夜に響く。
少女が僕に近づいた時、少しだけ飛沫があたった。
透明で、光を集めて、それは輝き、冷たさを残して消えていった。
少女はそっと草に座った。
草のつぶれる音が、微かに響く。
無造作に巻き付けられた白い布が夜に栄える。
「ムンクはどうしたの…?」
高くて柔らかな声が夜を裂いて耳に届いた。
静けさのように、何にも侵されず、そのもののままで。
「彼女は…」
僕の言いたかったことは夜が吸い取っていった。
何も言えずに黙り込んでしまった僕を、
ただ少女は見つめていた。
「朝、あの人が来て」
言ったのよ。
頬を手に乗せて少女は呟いた。
何処とも知れぬ目線のまま、
片手で草を弄ぶ。
先に行くにつれ桃色に染まっていく指先に、
草の悲鳴と色が、収まっていく。
「あなたの恋人になれって」
鈴を転がすように、少女は笑った。
ふふふふふ、と夜に響いた。
其処にはなんの感情もこもってなかった。
ただ、笑うと言うことを、少女は目の前でこともなくやってみせた。
僕は何も言えなかった。
夜に触られたように、口が閉ざしてしまっている。
何も解らなかった。
彼女の気持ちも、少女の気持ちも、奴の気持ちも。
少女は2…3の草をぷちぷちっと引き抜いて、立ち上がった。
少女の重みが耐えられぬように、足の下の草がきゅっと鳴いた。
やっと僕は少女が何も履いていないことに気がついた。
「寒くないの?」
ぽろっとでた言葉はあまりにも間抜けで、
夜も見過ごせないほどに、からからと転がった。
言った側から後悔して、ふあっと風が吹いて、どうにもやるせない気持ちになってしまった。
少女はそんな僕を、金の蜜のような瞳で、ただ見て、呟いた。
「あなたなんて大嫌い」
はっと顔を上げたとき、其処に少女は居なかった。
ただ、少女の足音が、夜を確かめるように響いていった。
さく…さく…さく…と、
固い音で。
川がゴウゴウと鳴っている。
向こう岸の光の列はいつの間にか消えてしまい、
ただ、遠くの方で、りん、りん、りんと祭りの音がする。
僕は1人で闇の中にいた。
少女の足音が、幻影のようにゆらめいて、
ごうごうと川が鳴っている。
ごうごうと耳鳴りがする。
川の音なのか、僕の血の音なのか。
「うんざりだ…」
ぽつりと言った声の冷徹さに、僕はぎょっとして、頭を振った。

***

次の朝、奴が尋ねてきた。
もう合わないで居ることは、出来なかった。



奴が何を言ったのかは、覚えていない。
ただその響きだけは覚えている。
残酷で、熱をもった哀しい響き。

僕の言った言葉はことごとく忘れてしまった。
必死に何かを訴えた気もするし、
必死に何かに怯えていた気もする。

奴も僕も、言葉なぞ
ただ無意味に響いて、お互いにとどく前に
傷つけて、
痛みに紛れて消えてしまった意味を、探っていた。

誰かに伝わらないことが、どうしてこんなにも辛いのだろう
伝えたいことすら見付からないのに
どうしても、言いたくて、言えなくて、探せなくて、
苦しいと泣き出してしまえば楽なのに

僕は僕が奴を傷つけていることを知っていた。
でもどう謝って良いのか、出来なかった。
ごめんなさいと、とても言いたかったのに。

小さな剣を持っていたのは奴だった。
僕はそれを振り上げて、おろした。


どちらが一番傷ついたのだろう、思いやっても、どんなに拒否したくても
どうしても傷つけてしまうのは何故なんだろう、
どうして存在するだけで傷つく人がいるんだろう
どうして小さな尖った石のように、相容れられない。
奴も僕も、痛みを与えるためにしていることは、何もないというのに。

とにかくそれが幕切れだった。

僕は穴を掘る。
ざく、ざく、ざくと、穴を掘る。
黒い夜の地面に、黒い穴が空いていく。
大嫌いな雨が降っていた。
大嫌いな冷たさが、服の上から熱を吸い取っていく。
しがみつく服。
ともすれば滑りそうになるシャベル。
煙った満月だけが、僕を見ていた。
水に濡れても固い地面は
突き刺すたびに、掌に、傷をつけた。
僕は半ば夢心地で、
もうそれが、血なのか汗なのか、それも雨なのか、
わからなかった。
滑りそうになるシャベルを必死に握りしめていた。

あ、あ、あ、

草木達が鳴っている。
雨にあたるたびに音を出す。
もうそれは、合掌だった。

あ、あ、あ、あ、

僕が穴に入れた物も
雨に打たれて鳴っていた。

あ、あ、あ、

哀しい声だった。

何か目の辺りが熱いと思ったら、
僕は泣いていたらしい、
泣いていると気がついたら、嗚咽が止まらなかった。

あ、あ、あ、と、物が鳴っている。

何時間そうしていただろう、

気がついたとき、そっと誰かが僕を包むように、手を握っていてくれた。
雨はしとしとと降り続き、照っていた満月も、今は見られない。
手をたどると、ムンクが居て、僕にそっと微笑んだ。
「電話しても、でなかったから」
忘れていた物を取り戻すようにムンクは言った。
赤い椿のような声だった。
熱をもって、舞い散る。
驚いて、僕はムンクを見た。
雨の中、煙っている漆黒の髪が際だたせるように、白い顔を覆っている。
どこからかの明かりで、神々しいほどにムンクは輝いていた。
「私、
昨日覚醒したの」
ああ、と僕は頷いた。
ではこれは、彼女の声ではないのだ。
頭に直接とどく心なのだ。
こんなにも、彼女の吐息を感じるから、思い違いをしたのだろう。
「……寒いね」
彼女はそっと僕に寄り添った。
濡れた衣服は着ていないように、彼女の肌を
感じさせた。
じっと青紫の瞳で、彼女は黒い穴を見ていた。
僕はそんな彼女をただ静かに見守っていた。
赤い唇、熱のこもった瞳、雨の水滴が、髪から流れて
彼女の頬を伝う。
彼女がとても生きていることを、僕は知っていた。
「そう……」と彼女は言った。
「そう……」と、
もう一度呟いて、そっと僕を抱きしめた。
冷たさの中、彼女の熱が救いのように、僕は彼女をきつく抱きしめかえしていた。
雨がしとしと、しとしと、何かを責めるように、降っていた。

***

その日は快晴で、
何にも邪魔されず、青に煌めく太陽が、照っていた。
紫の濃い影が、ありとあらゆる文様を地面に投げかけている。
広い景色の中、一面、緑の短い草の中、
風が吹く度に香り立つ、草の匂い。
遠くに神殿が見える。僕らのでてきた白い神殿。
太陽に射られるように、それは輝いている。
奴は少し緊張したように、
奴を迎えに来た白くて大きな鳥たちに、挨拶をしていた。
鳥の羽毛が鳥の息づかいで上下する。
僕と彼女は少し離れた地面に座って、
奴の旅立ちを見ていた。
白い少女が一本の輝く柱のように、
あっちの方で、立っている。
離れているので、その顔は、見えない。
太陽が、全てを照らしていた。

白い鳥が今、1羽、空に向かって飛び立った。
次から次へと、1羽ずつ、
青に模様を描くように、飛び立っていく。
最後の1羽が、深い青の瞳で、
全てを知っているように、奴をそっと見下ろした。
奴が頷いて、手を差し出す。
これからあいつは月に行くのだ。
太陽に見放されたように、白く頼りなく空にいるあの月に。
多分もう、帰らない。
鳥は認めるように、その手を握って、自分の背へ、導いた。
ばっと羽ばたく。
草が強い風に、きゅうきゅうと悲鳴を上げる。
ばっばっと、羽ばたく度に、鳥の体が浮き立つ。
少女が何かを叫んだ。
鳥がいななき、その声はかき消された。
ずあっと大きな風が巻き立ち、鳥が大空を舞った。
鳥を中心に円を描いて草が押し倒されていく。
飛び立つ背から、振り返って奴は微笑んだ。
太陽のように、輝いた笑みだった。

その途端にあの夜あったことを、
全て僕は思いだしていた。
夕刻から降り出した雨の音も、
奴の悲鳴のような叫び声も、

俺は、お前が好きなんだ

雨に消されるように小さな声だった。
それでいて全てを孕んでいた。
意味ではなく、その重みで、僕はショックを受けた。
動けない僕を、奴は引き寄せて、口づけをした。
震えている奴を感じたとき、やっと僕は正気に戻った。
そのままきつく抱きしめられて、思わず叫んだのだ。
やめてくれ、と。
奴は泣きそうな顔をして、僕を放した。
沈黙が全てを襲った。
雨の音だけが部屋に響いていた。
気がつくと、奴はとろとろと帰り支度を始め、
玄関に向かっていた。
帰っていく奴の背で僕は悟った。
苦しませたことも、傷つけていたことも、

もう振り返らずに飛んでいく奴の背中は
全てが終わったんだと言うように、瞬く間に小さくなっていく。
少女がもう一度何かを叫んだ。
それは奴の名前だったのかも知れない。








彼女が立って、僕の手をとった。
飛んで弧を描き、別れを惜しむように遠い空で舞っている鳥たちの背から、
太陽の光が粒になって、七色に煌めく。
草は去っていった風に安堵するように、小さな囁きを交わしていた。

少女の側に行くと、少女は涙を流していた。
金の瞳を一杯に開いて、
身にまとった白い布を強く強く、握りしめて。
その目は鳥を追うように、太陽を見つめている。
僕が躊躇していると、彼女がそっと少女の肩を叩いた。
ひくっとひくついて、少女が気がつく。
僕らをまじまじと眺めたあと、
あんたたちなんてだいっきらい
と、宣告し、
そのまま確かな足取りで、涙を拭きながら、神殿に向かっていった。
その姿は太陽に祝福された白銀の神のようにしゃんとして、
嗚咽と踏まれていく草の悲鳴が、きちんと響いていった。
彼女は僕に、ちょっと微笑むと、
行きましょう、と相変わらず熱のこもった心で言った。

振り返ると、鳥たちは、もう見えなくなっていた。
ただ太陽だけが、白く白く輝いている。
月を探しても、光が邪魔をして、見付からなかった。

奴の最後の微笑みを、思い出して、僕は少し、泣きそうになった。











地面の中に埋まってる、奴の残骸達。
ミミンガ鳥も、金色のカップも、開けていない生物の入った封筒も、
あの雨の中で、何が言いたかったのか。
あ、あ、あ、と哀しい悲鳴が、レクイエムのように響いていた。
僕の心から、それは抜けない。

ミミンガ鳥は、逆らわなかった。
首に手をかけたとき、小さな彼の羽毛が、くすぐったくて
掌に、く、く、く、と微かに響く、心音に鳥の命を感じていた。
死んでしまうときに、慰めるように、僕に一言、くぎゃっと鳴いた。

それでも彼は魂だけなのだから、
今頃土の中にいることに飽き飽きして、
僕に見付からないように、そっと外に抜け出しているだろう。
古くなってしまった体を捨てて、
僕の捨てた封筒の、小さな命を拾って。
もっといい、もっと優しい飼い主を捜して、
そして飛び立っているだろう。
奴と話しているとき、奴が帰っていくとき、
全て静かに見ないふりをしていたミミンガ鳥。
飛び立ってしまった奴の白い鳥のように、
彼も遠くへ飛んでいく。
もうここには帰らない。
その光景は哀しいけれど、明日に続く、太陽のように、輝いているのだ。

言い忘れた事があるんだ
いつか、言える日が来るかな。と言うと、
彼女は、きっとね、と微笑んだ。
1999-01-01 00:00:00