2017-06-02

存在のすべてが祝福である





ようやく知れたのが

存在のすべてが祝福である、というこだ



神々さまは

ほんとうに

人間も、いのちも

よろこばれ

とうとばれる



この世にあたえられた

存在のすべては

祝福なのだ

(※存在はすべて祝福されている、ではなく)



存在している、が、祝福そのもので

そうして、そこから

ながれでるもの、

すべて、祝福になっている



エネルギーが。



......



そうして、

日々を生きている

人間のこころからわくものは

すべて、歓迎されている



それはすべて、

この世に

祝福をなす

そういったエネルギーだからだ

(自然な行為がプラスになる)



しかし、よく

見極めることができないと

自分ではないものに

まどわされて

それを流して

かえるものを

こうむって

苦しむようになる



自分ではないもの

(人心がないもの)は

祝福にはならないからだ



祝福は、祝福がかえるが

厄は、厄がかえる



エネルギーが。



......



自分であるもの

(ひととしておもうもの)は

あらわしても、あらわしても

歓迎される

(みえないものにも

世界にも、エネルギーが。)



たとえば

ひととしておもうこころは



「自分で、自分のことをしたい」

「また状況や自分のことを

自分をもってきちんと思慮したり

しらべたり(知ったり、理解したり)

分別したりしたい」をもとめる



「自分で決めたことをしたい

またそれを、分かってもらえるよう

表現したい」とか

「理解したい、

自分のことも

理解されるように伝えたい」もある



そこに依存はないし

そうしたことには怠惰もない



まわりに惑わされて

ふらついてる気持ちもない



「相手を苦しめないようにしたい

尊重したい」もあるし

「押し付けたくない、

距離は適切にとりたい」もある



表現の問題ではなくて

自分であるものか

惑わされて吹き出したものか

見極めることが

大切なんだろう