2017-09-28

自分の正体

見えないものの正体や
他人の正体ではなくて
自分の正体が
生きる中で
問われ続けているのを
たまに思うのです

他人の中にそれがあるのではなくて
自分の正体のひとつ、を
観ているにすぎません

他人はすべて
こころも、たましいも
プライバシーは
守られているから

他人のことを見抜いたようで
見抜くことはできないんです
ですから
うかつにも他人のこととした
その姿で
己の正体を伝えられ続ける

……

自分の中にはそれはない、と
している時には、
できないのですよ

逆にいうなら
「自分の中にある」と
わかっているから
出来るんですよ

見えないことが

出来る限り、自分の正体だと
知り続けているんですよ

……

清濁あわせのんで人となると
いうのは
清らかなものと、
濁り淀んだものが
ふたつあって
そのふたつを
心からわかせて、生きていて
どちらも己だねぇ、と
飲み込んだ時
人になる、と
いうものだろうと
思うのです

……

堕落、や
怠惰、というのは
他人にばかり
ソレを見る姿なのかもしれません

………

あるがまま、本音で生きたとき
にんげんは、他人を、呪います
ほぼ、ほぼ、呪います

この呪念については
誤解がおおいので
すこし、はなさなければ
ならないことがあるのですが

様々な悪意を、しない時
単に、それがどういうことで
悪いことだから、という
知識があったり

自分も悪かったかもしれない、
自分が悪いかもしれない、という
把握があるから
しない

知識か経験が
しないことを選んでいる

本音は、何を感じているか

……

象り、そうした概念のない世界へ
概念のないところから
力はながれますから

たましいの状態
概念のない状態で
呪わない生命にならないと

力が開花したなら

呪詛をふみます

そこで、意識は
とりでにならない

……

力をもってうごくなら
意識しないで
概念のない姿の

正体、の。ところを

正体ーー魂に
力とともに、
実態が
やどらないと

実態を磨かないと
あぶないんです

……

濁り淀んだところは
己はちがう
他人にあるのだと

思っていたっていいのです

……

能力は
己を土台に開花します
ソレは概念ではなく
現実として
目の前に出てきます

ソレが自分の正体だ、と
いうところです

底を見ないと、土台がない

……

自分の正体だと
しない人は、
しないでいいのです

みてとれればいい

能力者で
ソレがみてとれなければ
人に、能力はじつは
具現しても
伝わらんのです……

目の前のひとへ
情をもてということでしょうか

この人は出来ていない
私は出来ている

そんな心情では
人には伝わらんのです
ソレは能力が
咲いていないというのと
おなじなのです

他人が出来ていない
他人の、こころが、姿が、悪い

これでは
どうしても
そうした力が
こころから咲かない
伝わらんのです……

……

「あれが私だ」としたとき
情がわくんです
ようやく、他人を理解しようと
しはじめるんです
どこか、違いますから

おなじ心情をみてとれると
ちがいがみてとれる

あれは私だ、そこから
できることがあり
できないことがあり

私にもそうした気持ちがあり
心根がある

そこから
違うことができて

人に
己に
なにがしかを
うむようです