2017-10-21

きらいなもの



内心の神聖にふれれるなら
外在の神聖にもふれれるし

また、邪悪は
状況と状態により
わきたつもので
「魂にあるもの」ではない

だから
きえない
けせないものだ、と
いうことにも
ふれるよ

……

(あるんだったら
けせるんだけど
外と内の関係性で
「沸く」ものだから
最初から、
命の魂や心は
それを持って無いの
だから、生涯
沸くことを見つめ、
気をつけることはできても
消し切ることは
ありえないの)

……

「私は善人」は
わかりやすい
邪悪だよ

……

人間は
生涯、邪悪におちきることも
神聖になりきることも
ないよ

……

生きている人の
精神性の追求が
かならず、
矛盾をはらむのは

生きているかぎり、
人は、生涯、神聖善には
達し得ないからだよ

……

(だからこそ、
精神性の美学を
他人に宣うなら
その時点で
ろくでもないんだけどね)

(その知識(観念)で
他人の姿を
みている
時点で
ろくでもないのよ
精神性の美学から
はなれてんの)←(根源矛盾)

(出来てから
自分が、出来てから
身に付いてから
言葉をつかうようにすると
違う風が
でてくるけれどね)

……

ひとり

自分の内だけが
神聖かというと
そうじゃない

「内にも外にも」
神聖はあり、

神様は、
みえないだけで
現実にいるよ