えもふり、という
ソフトをダウンロードしてきて
なにか面白かったので
それで不動明王とか
薬師如来とかつくってあそんでる

なんか仏像つくるみたいだよなぁ
なんて話ししてる

仏像もハイテク化していって
やがては
可動式だったり
アプリ式だったり
できるようになるのかもね

仏像いうと
聖書のことばの
悪とされるものの
「木や土や銅でできたものをおがませ
それにささげたものを
お前たちに食べさせている」に
でてくる
「もの」のように思える

イエスはそんなん言うてないよ
いうんだけど
言葉は不思議なもんで
そこにそういうふうに現れている
ゆうことは
ひとつなにかあるのだとおもう

ことばがくみあがるところの
海のようなところが
いまは、荒れにあれていて

黒い浪と、光浪、
どちらの波をくんで「あらわしたか」で
言葉のさまが
かわってしまうんだけど

「人を否定したい」は黒く
「認めている」は光から
あらわれやすい

それはともかく
聖書、聖なる書という
おもてしきの言葉じたいが
影響をもっているので
その予言も、けっして
悪いものではなくて
やはり聖のものなんだとおもう

聖なる書は
素直にうけとることをもとめる

私は、神に神体がないかのような
まして、心がないかのような
ことをいうひとは
信じないんだけど

(つまり神に実態がないから
仏像はだめというのは
聖書にもない、
心を否認するのは
ましてや、まちがいだ)

聖書にかかれているのは
「そうした像をおがませている」
何某かの団体が
邪神崇拝だよ、という警告なので

素直にうけとるなら
「像をおがむ」こと自体は
悪ではないんだろう……

絵画……
いぜんも、絵画の
ちからにふれて
言葉より深いと思った

言葉でもそうだけれど
「現実に」具現させる、とは
人が思うより深い
……

表現(と、そこにやどる心理も)は
気をつけていきたいなぁと思う
Series.日々徒然
えもふり……