自分の心の皿が
割れたときの
悲劇性や喜劇性は
話にならない

それほど悲観的でもないし
わりと笑えた、なのに
恐ろしいほど衝撃だった

「人って壊れんだー」って

壊れないかと思ってた

……

なんでもいいんだけど

他人の像と
自分の像があって
あたまのなかの
そうした「すがた」に
血が通い始めたとき

他人が、いきはじめた

私も、そうしたら
なんかはじめて
人としてが
こうなのか、と
歩んでみていた

今言いたいことは
そんなにたいしたことじゃなくて
「バカにしていること」は
わりと馬鹿じゃないし
駄目でもなくて
そこには血の通う
日々のある「人間」がいんだよ

とか

たとえば
建前も、本音も
大切さでいえば
おなじだと思う
ひととひとと関わるときに
どちらが大切かじゃなくて
どちらも大切で
きちんと関わりたいなら
本音だけでは駄目なんだよ、とか
建前は
嘘つきじゃなくて

嘘つきが
嘘つきなんだよ、とか

……

嘘は、実態がない
あつみ、というか
体温や呼吸みたいなもの

……

たとえば
悲劇性を、だめだというのは
喜劇性を、だめだというのと
にていて
でも、どちらも、大切なんだよ

悲劇性は、ネガティブではなくて

悪意がネガティブなんだよ

……

幸福になるときはなるし
不幸になるときもなるよ
なりたくない、とかじゃなくて
なるときはなるんだよ
そこから、あるきかたは
いつもあるけど

「不幸」を下に見てたら
見失うこともあるよ

……

こうした気持ちを
むかしは、絵本にしていた
漫画にしていた
ようやく、思い出した
くだらねーし
どうでもいいと思うんだよ
いまは
こんな、はなし
どうでもいい
だからしたくない
でも、もともと
わくんだよ。

どうして文章にするたびに
嫌気がさすのか

わたしは、ほんとは
まったく
言葉にならないことを
言葉にしてしまおうと
それで歪んでたんだろう

忘れてたんだなぁ

……


理屈は紙の上
現実は時間と人の間に

……
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悲喜こもごも