みなこ

知らなければならない鬼の顔は
そう、たいして恐ろしいものではない
だけど、深く辛く冷たいものだ



喫茶店に入ると彼女はもう来ていた
そこはかとなく、つめたい顔で
私に手を振った。
あれはもう、ずっと昔のことなのに
まだ鮮明に思い出せる。

東条美奈子は私の親友で
唇にいつも、綺麗な桃色のリップをぬっていた。
この喫茶店の窓ぎわで
結婚するのと言われた時、私はぎゅっと押し黙った。
それから「マジかよ」と言った。
なにが、「マジかよ」なのかは美奈子も分かったらしく、
「だって…」といったまま、
綺麗な桃色の唇をはんぱにもちあげて
私から目をそらした。
それからすこし、ぎこちなく珈琲にくちをつけた。
「だって、好きなの」
「そう…」

あの日、外はどしゃぶりで
ときおり、真っ暗な空からビカビカと稲妻がはしっていた。
たらいが転げるような音が何度もして、
そのたびに、臆病な気持ちになった。

カウンターにおきざりにされたような古びたラジオから
乱れた声で「とうきょう かみなり あらし ちゅういほう」と
アナウンサーが叫んでいた。

ふと見た窓の下の人々は
急にふりだした大雨に
背広をかぶったり、かばんをあたまにのせたりして
みな、耐え難い顔で走りぬいていた。
みんな「つらい」という顔をしていた。



美奈子がはじめて結婚した男は
彼女の理想を絵に描いたような男だった
彼女の理想は、つまり、お金とハンサムだった。
ハンサムはよく女の子と遊んでいた。
隠しもしなかった。
女の子と遊ぶとき、美奈子のことを
「べんりだし」と同じ声音で「必要だし」と言っていた。
「結婚したら、かわると思うんだ」
そう笑った美奈子は結婚して半年で離婚した。
理由は、私にもいわなかった。
相手の男は離婚届を出したあとに
美奈子と私の友達、理子にメールを出していた。

  だめになっちゃった笑
 これからお茶でもしませんか?

美奈子が2度目に結婚した男とは
彼が結婚してからしばらくして、
ようやく会わせてもらった。
美奈子は数年、彼と私たちを会わせなかった。

恰幅のいい、医者だということだった。
太っていて知識はあったが、粗野に見えた。
だけど美奈子は、その少しぞんざいに人を扱う男に
ぞっこんだった。
うっとうしいぐらい、
この人はね、この人はね、と
情けない顔で笑って、何度も、何度も言った。
あのねえ、私たちラブラブなの、と
この人は、と、私にいった。
半分眉が八の字になりながら。

これも1年ちょっとで、離婚した。
別れた次の日も、美奈子の右あごと
目の上には、黒いあざが残っていた。

そうして、今日
久しぶりに会った美奈子は
やつれた指を寒そうにこすりあわせて
まったく化粧をしていなかった。

なんで呼ばれたのかはよく分からなかったが、
また、男だろう、と思った。
 いつだって男なんだ。

彼女の顔にはうぶげが生えていた。
たよりない、そのしろしろの産毛に、
私はなんでかぞっとした。

「いま、男居るの?」
美奈子は躊躇して、息を呑んでから
「いる」といった。
「どんな人」
「殴んない、やさしい、でもお金とってく」
それから、壊れたような
それでもとても綺麗な顔で笑った。



そこは高校のときによく利用していた
茶色の喫茶店だった。名前が変で「ら・メール」といった。
何の意味かは誰も分からなかった。

美奈子と私はたいして親しいわけではないけれど
いつもその喫茶店でなんでもないことを
何時間も話し込んだ。
たいてい、美奈子の話は男の話になるので
私は美奈子が嫌いだった。
「男しかない女」と思っていた。

一度、会計を済ませ、
ふとい階段をのっしのっしと降りるときに
ふと、とんでもなく、寂しく、つらく、悲しい
嵐のような気持ちになって
あとから降りようとした美奈子を
綺麗なそのストッキングと
きらきらしたスカートの美奈子を見上げて、言った。

 私は、自分でない人が きらいなの

え? と美奈子は言った
え?

 じぶんが、ないひと?

私は首を振った

 自分で、ないひと

美奈子
自分がなくなるなんて あるのかな
誰かに決めてもらい続けて
誰かの下にいつづけても
自分はなくならない

失ったと思うとき
私たちは隠しただけなんだ
たぶん、すっかり怖くなって
真っ白な顔をして
おなかの下に、隠れているんだ
ひとりで、いきをひそめて
いたみを かかえて
うわべの顔を、うわべを、おもてを
すべて誰かにまかせて
下の方で、おびえている

私たちが居る



「美奈子」
美奈子、と
私はもう一度口にした。
あれから何十年たっても
何度、何度だって
彼女を見ていて、私は泣きたくなった
嵐のような、さみしいさむい辛い気持ちが消えなくなった。
家に帰っても、胸の中が
吹きすさんだ。

女は、いつも、いつも、いつも
弱くて、かなしい かなしい

「美奈子、もう、お父さんに
 認められなくていいんだよ」

美奈子はヒッと、叫んだ




みなこのお父さんに一度、会ったことがある
美奈子よりもお金が好きそうだった。
変にあごを前に突き出して、笑っていた。
「こいつは本当にブスだな」と美奈子にいって
美奈子はけんのある目をして、
お父さんの後ろにしたがう
お母さんをかばうように
お父さんの前にたっていた。

「あそこをいくこのほうがかわいいね
 おまえはほんとうに おやににて みにくいな」

お母さんは、美奈子に、かばわれているのに
「おやににて」といわれているのに
お父さんと一緒になって
「ほんとうにね、このこはみにくい」と
笑った

 息が詰まった。

逃げて、私はこの喫茶店で、
彼らの笑い声、実に明るいほがらかな
じゃあくな笑い声が立ち去るまで
すべてが終わるまで、下を向いて、
注文を選んでいるふりをした。
それ以来、この喫茶店を避けて歩いた。

美奈子が選ぶ男は
みな、なぜか、あの父親――あるいは、母親に似ていた

認めてくれなかった 親を見返すように
美奈子は、親ににた人を
あいしつづけていた



ぼろぼろと、声もなく泣き出した美奈子に
あの頃と同じように下を向いて、私は
何を言っていいか分からなくて、迷っている
息が詰まって
つい、口走った

「海に行こう」
「うみなんかないわよ」
ヒステリックに美奈子が叫んだ
「1時間もいけばあるわよ」
「どこによ」
「どっかによ」

そういったら、美奈子が笑った
もおおお、といいながら、笑った
くやしいよお さみしいよお いたいよおおお

それで、ふたりで、笑った
ひりひりした、でも
痛いけど、かなしいけど、本当に、心から笑ったんだ



かみさま
私を愛さない人を
愛する必要があるんでしょうか

知らなければならない鬼の顔は
鬼の顔をした
孤独な子どもの顔です
2011-02-05 18:57:07