とざされた海

ふと目が覚めると
暗い海の底にいて
すべてがぎゅうっとしばられているような
きつくて苦しいことになっていた

上の方はよるらしいが、
うすく、ふなゆらゆらと、
月明かりのようなしずかな光が見える

はて、と、サイクンは考えた
いつのまに、しずんでしまったのだろうか
なんで呼吸ができるのだろうか
死んだのだろうか、夢なのだろうか

サイクンの頭の上を、おおきな魚の影がよぎった

:

サイクンは名を「犀川 薫」という
知り合いはみな「サイ」とか「サイクン」と呼ぶ
かおるとそのままの呼び方でよぶ人は1人しかいない

家族はとおに離散して
サイクンは格安のあばら部屋をひとつ借りて住み
アルバイトの賄いを食べながら
わずかばかりの貯金と
散歩を趣味として生きてきた
友と呼べる人も、恋人と呼べる人もいない。

人と縁遠いサイクンがなぜ、
このような海底にいるのか。
上を見てとおる魚の影を数えるのにもあきて
彼はまた考えはじめる。

どう思い返しても、
うらまれた、とか、まきこまれたとか
そんな風にして殺された記憶はひとつもない。
けれど、恐ろしい記憶は恐ろしいほど消えるという
としたら、もしかしたら
僕はもう殺されていて、今は幽霊であって、
幽霊と言うのは意識があるのだなぁ、と
なんだかやけにのんびりしたことを考える。

いつだってそうなのだが、
サイクンは不幸をよく理解していた。
理解しすぎていたのかもしれない

不遇で焦ってもしょうがないのだ。
――かといって、あきらめてもしょうがないのだけど。
いつだって、不幸とか、そういったものに必要なのは
残酷なことだけど、げんじつてきなれいせいなはんだん、で
それはとても残酷だと思う。
どうしようもなくなったら最後は祈るしかないが
いつだって、最悪になってほしくないという
切ない、真摯な願いは通じなかった。

しかしこんなことは生まれて初めてで
まぁ誰だって死ぬ経験は1度きりだからしかたない。
サイクンはどこか腑に落ちないが、考えることにも飽きて
もう一度あたりを見回した。

東京湾あたりかと思ったら、意外と広いような気がする。
――サイクンはテレビとか、映画とか、
そういったものには疎いが、
図書館で借りてきた暇つぶしにうってつけの
長い長い本には「東京湾に殺されてしずめられる」とよく書いてあったので、
しずむんなら東京湾だろうと思ったが――
しかし、サイクンがもつ東京湾のイメージとはまったく違う。

魚やいろいろなものも生きているようで、
どちらかというと暗く澄んでいて
臭いようなものもない。
――もちろん、幽霊にはにおいがわからないのかもしれない――
だとしたら、とても運がいいことに
ようく奇麗な海にでも投げ込まれたのかもしれない。

そう考えていた最中に、となりにトポンと誰かが来た。

:

薄茶の髪をゆらゆらさせて、
彼は海底を歩いているようだった
たまにイソギンチャク
――いわべにこびりついたぐだぐだな生き物――にほほえんで挨拶して、
ぷうわぷわと飛ぶ魚の影を楽しげに見つめている。

そしてサイクンの隣にきて、あぐらをかいて
たばこのような、葉巻のようなものをとりだして
どうやってか、器用に火をつけて
ぷあああ、っと、煙入りのあぶくをふいた。

「また、おちてきちゃったのか、おまえ」
サイクンを見上げてほほ笑む顔には見覚えがあった。
「ミジマじゃないか、どうしてミジマ、ここはどこなんだ?」
そうサイクンが言ったら、よほどミジマは驚いたのか
目をまあるくして煙入りの細かいあぶくをたくさんふいて、
ごろん、と後ろに転がった。

「……なんだ、おまえ、話せるのか?」
「ミジマ? なんだじゃないよ、これは夢か?
 どうしてここに、僕らはいるんだ?」

こちらに胡坐のうらを向けていたミジマが
またびよんと転がり起きて、サイクンをまじまじと見る
「ふうん、話せるのか」
あぶくがまたぶああああ、っと上にあがっていった

:

ミジマの話は、サイクンにはよくわからなかった。
とにかくここは現実だけど現実ではない海で、
上の方の魚も、現実だけど現実ではない、魚だけど魚ではない
なんだか人だとか、かかわりだとか、印象だとか、
ヘンテコな奇妙奇天烈で
普通のサイクンなら笑い飛ばしているところだったが
――大体こいつは ぶらっどべり、とか
 くるとるふ、とか らぶくらふと、とか 
 みやざわけんじとか、
 やけにへんてこで、愚にもつかない本を読みすぎだ――
今のサイクンは、サイクンこそが奇妙奇天烈だったので
まぁ、納得した。 意味はわからなかったが。

とにかく、ミジマがいうには
サイクンが話ができるというのが、驚きなんだそうだ。

「たまにここに落ちてくる、
みんな、一度はおちてくる
だけど、みんな、覚えていない
おちてからあがるあいだに忘れていく
覚えていたくないんだろうな」

ミジマはぶんぶかぶかぶかと泡をふき
上の方にいる魚を見上げる

「たのしそうだろう、
あれはな、本当は、たのしそうだと思うだけで
たのしそうではないんだよ

おまえのように
落ちてきたから、すこしして
魚になって
なんとか上にいこうと
ゆっくりゆっくり必死なのだ」

静かな、音もない海のそこに
どこからか金色の光のつぶが、ちらちらと落ちてきて
灰色の砂の下に吸い込まれていった。

サイクンはきれいだなぁ、と思いながら
すこし、さみしい、と思った。
ミジマの煙入りのあぶくは
金の光と交互にゆれて
のぼる光としずむ光と、うつくしかった。

「落ちてきた奴はみな
上をみて、にくみ
上を見て、ねたみ
呪詛を吐く
けれどな、それは錯覚でな

なにもみないで憎み、なにもみないで妬んでいるんだ
けっして、上を見ているわけじゃない
下を見て、したの自分ばかりを見ている」

影さ、と、ミジマはわらった
やっぱりどこか
さみしげだった

上の方の魚が、なにかをはいた
それはきれいだけども冷たいとがったもので、
ふうう、と、落ちてきて
サイクンのあたまにあたった。
あたったところがさくっとわれて
ぱっと冷たい赤いものがひろがった。
血のようだったが、痛みはなかった
ただ、少し苦しくなった。

「あのな、下を見て、
たまに魚はなにかをはくのだけど
下のものは、それがわずらわしいのだな

下から上にあがるものは
どうしても、下にいたときを忘れてしまうから
――忘れたいのだよ――
下をののしりたくなるのだよ

でもな、下にいるものに必要なのは
ゆっくりしたこの海いがいにはないのだから

あのな、なにか下に落としたがる魚は
実はまだ、逃れきれていない、
下にいた深いものが、おそろしくて怖いのだ」

「ミジマの話は愚にもつかない」

「そうか」

ミジマは不思議に、やわっこい笑みを浮かべて
「おまえは話ができるようになったのだな」と
うれしそうだ

「まぁ、聞かないでいい、聞かないでいい
けれどな
闇に落ちる必要もない」

ミジマがサイクンの右後ろを見ながら言う、
サイクンはちょっと怖かったので
ミジマの薄みどりの瞳だけを見ている

「そこでふんばって、
上を見ているようで、足元の影ばかりをみるような馬鹿はやめて
上を見ていればいい」

サイクンが見上げると、ちょうど朝がきたのか
さあ、っと、まっ白い沢山の光が暗闇のそこにまでさして
ミジマのあわぶくが、銀の音のようにきらめいた

上の、あたたかな光のなかで
たくさんの魚の影がゆら、ふな、ゆらやと、
多くの鳴き声をかわしながら
いきかっている

「ああ云う風に、たがいたがい
それでもかかわって居られるのは
この海からみると豊かだな

薫、お前
今は、この海に
――どうしても、自分のほかの生き物と
たがいにかわすのがつらくて
どうしても、ひとりの海に
きてしまったけれど――
それは、いつもある、あたりまえの異常だから
とりあえず、ゆっくりここで
いろいろ見ていけばいい」
「ミジマも落ちたのか」

そういったら、ミジマは笑った

「私は好きで落ちてくるのだ
でも薫、おまえも、みなも、
それはたぶん、忘れてしまうのだけど
必要だから、落ちてくるんだよ」

本当に意味がわからなかったけれど
まぁ、こういうことは当たり前で必要なのだとわかったので
サイクンは棒のようになっていた足をまげて
ミジマの隣に座った

「いつになったら魚になれるか」
「さあ、でも
あせらんことだ」
2011-03-09 13:17:52