京極夏彦の「鉄鼠の檻」を読んだ

読後もいろいろ思い浮かぶ
読み応えがあり
世界の奥行きが深い

いつもこのシリーズを読むと
胸の中が哀しくなるのだけれど
被害者にせよ
加害者にせよ
人間がえがかれているから、かもしれない

かれらは哀しい

……

禅や、さとり、魔境のことが
文献から良く調べられて
かかれている

ずっと謎だったことが
この本で氷解した

……

被害者も加害者も
ものがなしい

事件は、小さいものから
大きなことまで
すれ違いや誤解
行き違いを経ておきる
しかし、たしかな厚みを持って
おりなされていく

中禅寺の哀しさが
他のシリーズ作品より
良く出でいるのは
かれが文中でいっていたとおり
この話では
彼が、最初から負けている、から、かも
しれない

……

殺人事件なんぞおこれば
こわいし、悲しいし
不安になる

他の推理小説のように
「こんなところにはいられない」と
そこをでる坊さんが居たのも面白かった

坊さんだって
怖いし、ぶれるし、疑う
不安で、軸をなくして
もともとの性愛気質が
暴走するくだりもよかった
安心したいとか、まもりたいとか
そんな気持ちがすけて見えた

……

それは
そんなに
いいものか、と
いつも思う

なにごともとくに
種をあかされれば
たぶん
現実にすぎなくて

そんなにいいものじゃないし
たいしたことでもないし

それがあれば
それがありさえすれば
幸せになるもんでもないんじゃないか、と

……

魔境も、悟りのことも
この本が、一番
私にはわかりやすかった

人や、己を疑い
不毛な妄執にとらわれるのが
魔境なら
たぶん、人や、己や
日々を信じきれて
受容の極地にいたれた、のを
悟りというんだろう

言葉や意識ではなくて
胸の、腹の
底の底からの
受容なのだろう

……

読んでいて
「この人」が
もしも、「自分のこと」や
状況や、思いを
言葉できちんと話せていたら
全然、展開が
違ったんだろうと
思った

言葉は、
言葉のために
あるんじゃないし
思考のために
あるんでもない

禅のなかの
言葉にならない領域と
言葉にするべきだったことや
言葉にしてはならなかったこと
言葉にできたことが
行き交っている

ことばで
あらわせないこととが
書かれているから

あらわせること、なのに
あらわさない世界に、
慣れすぎていたために
伝えられなかったことが
浮き上がってくる



言葉を、つかえて
話しで、できることなら
きちんと話したほうが
いいんだと、
そんなことを思った

相手を傷つけるためではなくて
分からせるためでもなくて

分かり合う必要は、なくて

自分の状況や、状態も含めて
思慮や、思い
伝わってほしいことは
伝えるために
自分で、自分のことを
自分のことばで、話す

しんどくても、それは
とても重要なんだろうな

……

ことごとく
命や、心、
その上での混迷といったものが
うかがえる
なにか哀しい物語だった

人が良い
人物に命が灯っていて
感情も、きもちも、こころも
そして思考も活きている

だからこそ
事件がものがなしい

京極夏彦氏は
たぶん、ものがたりを、
語れる(創話できる)
数少ない方のうちの
おひとりなのだろう

……

鉄鼠の檻
檻の中にとらわれているものたちの
囚われたことの
何十年の哀しさが
根底に流れていたきがした

……

読書感想文「鉄鼠の檻」(京極夏彦)