あまりに暑いので
首から下げる、小さな扇風機を
はじめて使いだした

日傘とともに
首上に風がふいていい感じだ

冬もそうなんだけど
極端な天気はとにかく
からだが痛むように感じる

「効果をなかなか実感できない」
ささやかなことは
実はわりと支えてくれている気がする

日傘も、首上扇風機も
暑いのの前に微弱な力だが
ともにあれば
身体が痛むのが減るようにおもう

こういう時
コンクリートがいやになる
照り返しがきつい
鉄板みたいにネッツイ
足がたまに軽くやけるので
靴のなかになにかいれるかと
考えている
Series.日々徒然
アレルギー検査のけっか
花粉症はないとの診断がでたので
ラッキー、なくなったんだとおもっていたら
今の時期、目は痒いは鼻はじびじびだわ
花粉症じゃないならなんだというのか

花粉症じゃないのになんでなのか

そとはともかく
じびじびだわので
家でもマスクしている
でも
じびじびだわカユカユなので
マスク意味ないじゃん!と
切れてマスクとったら
十倍の濃さで痒みが増した
マスクすごい。

花粉症じゃないのに
花粉にやられているにちがいなく
マスクしてると十分の一にやられ感が減るので

いろんなことにマスクは有効なんだとおもう
あとなんだかんだいって
見えない空気と、水が人間には大切だとおもう
大事にしないとダメだとおもう
Series.日々徒然
気分や感情ではなくて
己の真の心の声を聞くには
すこしだけ静かな時間が必要で
わたしはそんな時は散歩してる

都会はうるさいって
いわれるけれど
ほんとうにうるさいと思う、
さわがしい音が常にどこかでしている

ゴミを削減するんだとか
自然を大切にするんだ、とか

たぶん、そんなことは
意識の問いかけではなくて
もうすこし、生きることを
大切にすればよいようにおもう

雑音は雑になる

からだや、欲望や、願望や
なみだつ感情の声ではなくて

丁寧に、ひろいあげるように
真の心の声をきいていくと
どことなく生きることが自然になる
わたしは、
そうしたことが自然にも善いようにおもう
Series.日々徒然
謹賀新年
あけましておめでとうございます

新春の明け方の香りは心地よい

12干支は木星の動きと連動しているそうだ
というか
「木星の反対側に(仮想して)星があるとし
その星の天空の位置を12にふりわけて」あるらしい

太陽が24時間
月が12星座、
木星(と対になる仮想星)が
12干支だそうだ
なんとなくロマンティックだ

なんとなく、私は
今年は荒れる年になりそうだなぁと思う

星がはじまりの位置にいる「子」の年
この世ががらりと変わるようなことがはじまった
次いで、次いで
星の位置が「寅」にはいった
ただそれだけなんだけど。

たぶん
「どうしてもできなくなること」があったり
「新しくできるようになること」があったり
「時」は荒波を迎えている

私たちは、これから
木星と対にある
仮想星がひとまわりする12年を
過ごしていく

私は、この12年は
滅びと再生が加速する
荒波と渦がまく
人間にとって、真骨頂であり
正念場である
そういう12年だと思う

誰もが「波にいる」ように思う

人間は、いつも完ぺきではいられないし
「時」はほんとうに波のようだと思う
凪ぐこともあり、荒れることもある
舵がうまくとれなくて
ころぶこともある

だから「転ばないこと」ではなくて
「転んでも起き上がる」
七転び八起きのほうが
私は良いと思う
人間には必要だと思う

転んでも、転んでも
どんどん起き上がれますように
さまざまなこと
軽く、軽く、こなしていけますように

今年もよろしくお願いします
Series.日々徒然
なんだか最近
体調が変わってきたのか
もつ鍋にはまっている
野菜も食べられて、
味もよい

店によって
美味しいところが違う
また量もちがう
どうももつ鍋は
お酒とともに食べるもの?らしくて
昼にひとりで注文してると
ビックリされる

もうお店で頼まないで
新鮮なもつを買って
家でしようか、などと思うも
下ごしらえとか
なかなか面倒くさい

お店は手間料がはいってる

何はともあれ、ことしも、
なんとか過ごしきれた

今年、一年
ありがとうございました
来年もよろしくお願いいたします
幸福な年になりますように
Series.日々徒然
東京・八重州のt-boxさんで
12月5日から開催中の
「エコなクリスマス・お正月」に
参加しています

私は前期の12月11日まで、
水彩画を五枚ほど
参加させてもらっています

お近くにお寄りのさいは
ぜひ、お立ち寄りください
こういう時分はいつも気が緩む
緩和されつつある
普段より気を付ける時かなと思う

美術館にいってきた
仏教美術はいつもひかれる
光のあたりかたでみえかたが違う

なににひかれるか、は
そのときの自分があらわれる気がする
必要なこと、必要なもの
心がほっしている

からだと同じように
心も何かを必要とする
意識ではわかりづらいことが
無意識にはあらわれる

なんだかむしょうに
本屋にいきたくなった



最近の方が
気を付ける時かなと思う
油断するから
心から油断してしまいそうだ

三密回避と、マスクと、手指消毒
基本はきっと変わらない
慎重に続けようと思う
Series.日々徒然
棚をつくった
カンセイヒンが想定されているやつで
指示通りに組み立てるやつ

木のにおいがする
いろんな木の家具で
なんの木をつかわれているのか
気にしたことは
なかったけれど
木は、木によって香りがちがう

木だけになんの木か気にしてみたい

日本人の
流行り病となった花粉症は
杉がうれたころに
杉をうえすぎて
いっぱい花粉がとぶようになって
流行りとなったらしい

杉だけにうえすぎちゃいましたってか。



たまにみえないところで
どんな影響を
自分はつくっているのか
かんがえる

いやだなぁーってことは
つくると
まわりにころがるようになる

楽しいとか
うれしいとか
リラックスとか
そういう風なものを
だしていけるひとになりたい

リラックスが一番難しいと思う

☆拍手レス

いつも応援ありがとうございます
☆「ゴミみたいな大人」は
まだflashですが、「酔いの玉」のほうに
おいてあります

☆ご感想とてもうれしいです
レスはなかなかかえせませんが
いつも励みにしております
ありがとうございます
Series.日々徒然
1、2度手にしてはいつも読めなかった本
なんとか今回は読みきれた
黒ミサがかかわる時の描写がしんどかった

以下、ネタバレあり



とにかく面白かった、
エピローグで
犯人があらわれるとき
今まで堪え忍んだ証のように
イワナガヒメ(黒)から
コノハナサクヤヒメ(桃色)へ
きりえたすがたの
描写もうつくしい

その後、プロローグへのつながりも
美しい、たぶん
図にすると、蜘蛛の巣のような
そういう章構成のようだ



プロローグで犯人の告白には
「じょろうぐも」があらわれる
エピローグでは
「こだま」があらわれている

犯人はずっと
「こだま」のふりをしていた
おうむがえしにひとの声をかえす
こだまだった。

憑き物おとしの基本は
正体をあばくこともふくまれる



居場所がほしいといっていた犯人は
たぶん、誰の心のなかにも
自分がいないことをもって
居場所がないと、
感じていたのかもしれない

彼女が破綻していったのは
結婚してからなのかもしれない

結婚し、あわいきたいを抱いていながら
伴侶のこころには
自分がいられるかも、と
おもっていながら

そこにも彼女がいなかった時に
この事がはじまったのかもしれない

鏡面相というのがある
彼女はまた彼女の旦那とおなじ
どうしても「役に立てないもの」であり
旦那のダメ人間行為は、
彼女のほんとうの姿を
鏡面のようにうつしだした
あらわれだったのかもしれない



同時に、蜘蛛の巣のように
事件をつくりだす事件が
蜘蛛のつくりあげたものだとしたなら

彼女は、曾祖母の
もしかしたら
伝身(写し観)なのではないかとおもった

彼女は彼女のつくりかたで
蜘蛛の巣をつくりあげた

彼女の犯行は、彼女の産出だけど
彼女が犯人にしたてあげた曾祖母も
ぼけていないときに、
糸をはっていたんじゃないか

彼女の行動には
その意図(糸)の影響が
残滓していたんじゃないのか



八つの扉の部屋
その部屋は、曾祖母が
そもそもすんでたところのようおもう

女系家族だから
長女が家督をつぐのだ
長女は殺された
だから彼女がついだ

部屋はそもそも彼女に
あてられていたものではなくて
家督をつぐことになったとき
あてられたんじゃないか

だから、彼女は
あの旦那を旦那にさせられたんだろう

この家族は彼女を蔑ろにしてみえていたけれど
じっさいは、あの旦那をあてがわれていることも
部屋をあてがわれていることも
「家督のつぐもの」として
扱われていたことがわかる

だとしたら、
部屋をあてがわれたとき
彼女は、蜘蛛をついだ
あるいは
本格的にきどうしたのかもしれない





バイアスのかけかたで行動がかわる
状況により行動が構築されるだけで
ひとは思考により行動しているわけではない
だからバイアスと状況を構築すれば
ひとの行動はある程度つくりあげられる

私は「無明の知」が
ほんとうの「人間の知恵」だとおもう

「私は知っている」は現実的ではない
「私はしらない」が
もっとも現実にちかい

「自分がしらないことを
体感会得で知っている人」は
やはりどんな時も
知らない自分がいるからこそ
調べることをおろそかにしない
だから
賢い選択をしやすい

同じように「私は正しい」も現実的ではない
人間は「正しい」にはいられない
絶対的にいられない
だから
どの人のどんな意見をとっても
「正しさ」は確率になる

なのに「私は正しい」が醸し出る人は
だからこそ、のきなみ
「現実の等身大」ではなくて
「詐称心理」の姿をしている

現実には、そんな人間は、あり得ないからだ



思考は行動時にはおきない
状況は行動をおこさせる

沈黙したとき
ようやく頭は起動する

思考は悩むことじゃない
頭をそうして起動させて
知恵をうごかすことだ



人間であるなら
生きる限り
バイアスはなくならない

知識見識そのものだから

でも「私はしっている」とか
「私は正しい」とか
そういうバイアスは
選択肢をなくしていく

バイアスは個性だ
上の二つの個性は
せまい。





気づいて取れる糸(意図)程度の蜘蛛はまだましだ

人の意図に踊らされたくないならどうすればいいんだろうと
本を読みながらつらつら思っていた

「蜘蛛のもの」
つまり「糸により踊らすもの」は
存在しているようにおもう

何にも考えずに、広い空でも見るといいのかもしれない
考えるからこんがらがるんだ
さまざまなことにとらわれても
ふいに「ばかばかしい」と
ふっきれて「自分の本来の姿に戻れる」が
タフだといえるのかもしれない



「ばかばかしさ」はいつも常にどこにでも転がっていて
深刻っていうのはそうそうない
たんに頭が「深刻にする」時が多い

そういう時、バカバカしさに気づけたら
なんだか色々自由になれる気もする
6
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