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見えないことの探求記 - 2017.22
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[ 私の話 ]
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[ 作品とともに ]
[ 審神者 ]
[ シャーマニズム ]
[ 夜の話 ]
[ 天部 ]
[ イエス様 ]
[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2017-09-02 09:16:43
...
ひとのこころはひとのもの
(noSeries)
ひとのこころは
そのひとのもので
誰かが、むりやり
かえようと強いたり
そいだり、そこなわせたり
たしたり、つけくわえたりは
ほんらいは、侵害なのだと思う
自分のものと、
その人のもの、と
わきまえを、ひけて
おもうなら、
意見があっても、
たんなる選択肢や
視野の提供にかわり
正しさのふりをした
支配欲からは
自然におりるんだろうと
私は思う
……
見えないことがわかっても
ひとのものが、
ひとのものであることは
なんのかわりもない
わかることが
ふえたとしても
ひとのものに、手を出さない
ひとのものを、壊さない
そいだり、きずつけたり
踏み込んだりしない
なんにも、かわりない
人は自由、というのは
選択権利はその人にある、とか
そういうまえに
そのひとは
そのひとのもので
他の誰のものではない、と
いうことが
あるんだと思う
……
指導、というのは
たぶん、誰も
できないものなのでは
ないかとおもう
いわば
「出来たらいいな」みたいな
幻想的な理想像に
すぎないんじゃないかと
ひとのものは
ひとのもの
自分のものが
自分のもの
私は
正しさのまえに
胸を張る人は
きれいだな、と
思う
正しさは
うぬぼれも
幻想的な理想像も
もっていないから
...
2017-08-26 02:00:40
...
気を付けること
(noSeries)
気を付ければできること、避けられること
というのがあって
それは我慢することや耐え忍ぶことではなくて
それをしないように
ふまないように
気を付けるだけです
昔は「おてんとうさまが見ている」という感覚があったといいます
「おてんとうさまに恥じない行為をしよう」と
いわれていたそうです
日の光の下、光のもとに
なにをさらけだされても
恥ずかしいと思うような行為には
ならないよう、しないよう
生きたいなぁ、と
思うのです
...
2017-08-26 01:27:55
...
んぬぬ
(noSeries)
私には
神様に好かれている方は
ちいさくても
ほのかでも 光があり
冷たい光や
あたたかい光や
いろもさまざまですが
どこか楽しそうです
そうした方は
何か誠実で
実のある
実のあるというのは
まるで。種をまき
そだて、実らせたかのように
いつも。日々どこかで
成果(みのり)をもたれている
...
2017-08-17 22:16:03
...
からだのよわり、エネルギーの見分け方
(noSeries)
八罪三毒(不和)のエネルギーは
身体が弱ると
とくに、あがらえないかたちで
己のエネルギーの上にのりあげ
行為や態度にあらわれてくる
お菓子類やカップ麺
食べすぎると
あのエネルギーへの
抵抗エネルギーを弱らせてくる
体を鍛える人や
健やかさ(健康というより
心身ともにすこやかさ)を
大切にするひとは
あのエネルギーからの巻き上げに
抵抗力がつよい
気分がいっときイライラしていたけれど
寝たらどうでもよくなった、
食べたら、お風呂にはいったら
どうでもよくなった、というのは
その感情が
八罪三毒(不和)のエネルギーからのものであり
己の感情ではない
エネルギーが
己の本心からか
そうした、この世に流れてある、
毒のあてられなのか
見分ける方法のひとつに
時間を置く方法もある
理屈をつけて
言い訳したり、思い返したりせず
ただ、時間をおいてみる
時間が経って
跡形もなく、消えるようなら
己のものではない
...
2017-08-16 01:17:32
...
滝抜ける
(noSeries)
マイナスのエナジーにあてられているときは
どうも、悪語というか
「人にイライラしたような話」を
しやすくなるらしい
そのとき胸うちを探ってみれば
別にイライラしてもいないらしい
仏教では
「人の悪口をいわない」をはじめ
何か条か、誓約がある
わたしはそれはとても良いことと思う
本音で生きる本音賞賛のようなものがあるが
わたしは、
本音は、じつはたてまえと
それほど変わりないんではないかと思う
むしろ、人を貶めたりすることや
悪口や陰口のほうが
本音本心からは
ギャップがあるんではないか
……
仏教の十箇条?のような誓約は
私が以前に感じ覚えた
不和のエネルギーをよけ
本心本質にたちかえる道筋におもえる
人間の、本心本質は
獣性とはほどとおい
やはり争いはいやだとか
むごいことは、ひとにも
自分にもない方がいいとか
きちんと人間らしい
あの不和のエネルギーからの
まといつきの
さけかた、はらいかたのようなものが
仏教の十箇条にはあるように思える
……
私は、知覚するので
不和のエネルギーのあてられのときは
謹慎みたいになる
どうも、あのエネルギーは
ことばにすれば
悪口に
行為にすれば
攻撃になる
自我も自己も
不和のエネルギーとは
別にある
……
言いたいことを我慢するとか
感情のままに行為しない、とか
知覚があると
そんな理屈よりも
感情が心と異なる
浮き上がりの感情
感情が本心と異なるときに
あおられてあてられて
動くことは、もう
己を捨てて
そうした感情の奴隷のようで
己がしているようで
感情がしたいことを
したいがままに
うごかされているだけの
釈迦のゆっていた「こころの奴隷」って
つまり、あてられや煽られに
奴隷になる、
己の本心でない浮き上がりに
流されて、されるがままになる
そういうふうなことかと思う
……
仏教だったと思うが
知っていたり、わかっていたりするものは
知らないままにしてしまうよりも
裁かれる(業が深くなる)
……
不動明王の憤怒は
前も書いたが
父親の、子を思う憤怒だ
不和の憤怒ではない
なんというか
みえるのだし
じぶんのも。ひとのも
わかるのだから
言い訳ができない
習いたい
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そのひとのもので
誰かが、むりやり
かえようと強いたり
そいだり、そこなわせたり
たしたり、つけくわえたりは
ほんらいは、侵害なのだと思う
自分のものと、
その人のもの、と
わきまえを、ひけて
おもうなら、
意見があっても、
たんなる選択肢や
視野の提供にかわり
正しさのふりをした
支配欲からは
自然におりるんだろうと
私は思う
……
見えないことがわかっても
ひとのものが、
ひとのものであることは
なんのかわりもない
わかることが
ふえたとしても
ひとのものに、手を出さない
ひとのものを、壊さない
そいだり、きずつけたり
踏み込んだりしない
なんにも、かわりない
人は自由、というのは
選択権利はその人にある、とか
そういうまえに
そのひとは
そのひとのもので
他の誰のものではない、と
いうことが
あるんだと思う
……
指導、というのは
たぶん、誰も
できないものなのでは
ないかとおもう
いわば
「出来たらいいな」みたいな
幻想的な理想像に
すぎないんじゃないかと
ひとのものは
ひとのもの
自分のものが
自分のもの
私は
正しさのまえに
胸を張る人は
きれいだな、と
思う
正しさは
うぬぼれも
幻想的な理想像も
もっていないから