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見えないことの探求記
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見えないことの探求記 - 2018.2
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[ 私の話 ]
[ 記事シェア ]
[ 作品とともに ]
[ 審神者 ]
[ シャーマニズム ]
[ 夜の話 ]
[ 天部 ]
[ イエス様 ]
[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2018-01-27 18:53:56
...
神様に嫌われる人
(noSeries)
あまり
好かれようとか
嫌われようとか(?)
しなくて良いとは思いますが
こうした視点では
記事が少ないようなので
一つ書いてみたいと思います
(私が詣でた神社やお寺の
その場で、見てきたことの
「傾向」みたいなもんです
すべての神様の
絶対ではないと思います)
……☆*・……
★木に抱きつく
木々や草花、神社にいる生き物は
神様とともに生きる、
循環生脈にあられるのですね
それで「エネルギーもらおう」とかで
神社の木々に抱きつく方には
苦虫を噛み潰したような顔をされる
神様が多いです
神社の木々は
神様のおとものような方々が多いらしく
「自分のお供」が
距離感なく、無礼に
エネルギー乞食みたいな心持ちで
むさぼられんのが
気色悪いらしいです……
「許可があるひと」が
たまにいるので……そうしたかたは別です
(きちんと、木々から呼ばれます、
たいてい
普段から木々と
(言葉でなく)
話されたりしていますね)
木々にかぎらず
神社にいる生き物、動植物に
無遠慮な方は倦厭されやすいです
……
★無礼、無遠慮、無作法
これは気にされる神様と
気にされない神様がいらっしゃいますが
神様は
人間の人生をこえて
時をすまい
また、人知をこえて
叡智をもたれている方々です
失敬なたいど、距離感のない言動
(たまにいますね、
自分は、
こう、神様に贔屓にされてんのよ、とか
私はスピだから、霊能力あるから
みたいな、気持ちでいる方は
これを踏みやすいです)
他人相手にも無礼、無遠慮、無作法な方
距離感のない方は
嫌われやすいものですし
誰かの威をかりて
己が大きくなったように思う方も
嫌われやすい
神さまも、こうしたことを
わりと倦厭されます
……
★「私はわかってる」みたいな態度
★「神様なんだから、人になにかしてあげて当たり前、私からつたえてあげる、与えてあげるから頂戴」みたいな態度
★「私がこの場を清めてあげる」みたいな態度
たいてい、無視されてますね
こうした態度をされる方々は、
満たされない欲や、
心に穴があったりするので
ケガレみたいのが
カモネギとばかりに
代わりに対応したりします
要注意ですね
とにかく「特別意識」や
「固定概念」は
厄介事になりやすいですね
……
★「スピリチュアル狂い」
★「霊能者気取り」
すいませんが
嫌われてます、
ご自分をよく見直してみてください
仔細は書きません、
ご自前で、わからなきゃならないことです
ご理解ください
……☆*・……
他人から見て
「異様」と思われる方は
神々天界からみても
異様なんです
他人からみて
「嫌だな」と思う方もそうです
信頼できない人は
神々天界からも
信頼できないんですよ
そうした方々に、神々天界は
力も、情報も、与えてないです
(たいてい、お仕事
無免ですね……)
(※……「信頼できない嫌な人」が、
他人を嫌う場合は
「人間の忌避感」ではなくて
悪意なので、
このタトエには
はいりません)
……
逆に「真面目に過ごしている人」
「普通に過ごしている人」は
好かれやすいです
……
「神様だからーーで当たり前」とか
「神様だからーーしてくれる」というのは
現実をみないような
固定概念ですから
捨てたほうが良いのかもしれません
他人に対して
「ーーしてくれて当たり前」とか
「ーーみたいな人」とか
決めつけられたら、
わりと不快な方は多いと思うのですが
神様も同じです
「されたら嫌なこと」は
誰に対しても、
気をつけて控えていき
「概念で決めつけず」
現実を見よう、理解しよう、とすると
わりと、ものごとは
明るくなっていく
さまざまな精神論より
ささやかな気配り、
心配りをするほうが
周りとの関係性も、運気も
整います
……
これから、神様は
ますます濃く、深くなられていきます
いまいちど己の姿を見直して
衿を正して
進んでいきたいですね
...
2018-01-25 13:13:29
...
神と憑き物のちがい
(審神者)
神様と憑き物は全く違うものであり
違う様子になります
かみさまは、
傍らにともにいるものですから
彼らを信じるも
信じないも、人の自由意思になります
(ちょうど、そばにいる方と
友達になるか、ならないか、の
ようなことでしょうか
信頼は、友情とおなじく
自然にうまれるものです
人と人との間が信頼なら
神と人との間の
自然な敬意が、
信仰と呼ばれるのでしょうね)
……
ツキモノ、は
能力でも状況でも
ついて、付与したり、
具現したりするので
ツキモノのちからをかりたり
またツキモノの守護をうけたりするときは
憑かれないとなりせん
憑かれるための精神があり
それを培わせるツキモノもあります
そうした培いは
(本来の信仰とは
似て非なるものですが)
はたからみたら
信仰の様になることがあります
この様は集団をつくりたがり
いわゆる、
群れの様をもつことがおおく
またツキモノにより
上下の関係があったり
縄張り意識があったりします
ただ、言われているような
上下関係=いやなもの、ではなくて
良いツキモノの場合
上下関係は「下のものを守るために」
発生するものです
「上のもの」のほうが
能力がたかく、先見もあるので
そうしたことのない「下のもの」に
上下関係をしいておくことで
いざというとき、
群れを守ることができるんですね……
群れ、上下関係、縄張り意識
こうしたことは
ツキモノ特有のものです
ツキモノの影響が濃いかたは
こうしたことに敏感です
誰かが
上に見えたり、下に見えたり
縄張りをふんでみえたりすると
急に騒ぎ出す傾向もあります
危機意識が
ツキモノと連動するんでしょうね
……
神様には
神懸り、のものがありますが
憑き物とはすこしことなります
エネルギーの影響は
つく(憑き物)
被る(波動などから影響をうける)
おろす(自体の場を合わせることにより、エネルギーをそこにおろす)
などなどがありますが
神懸は、そうしたどれとも似ていません
被る、と少し似ていますが
(祟り神の気は
被るかたちで影響を受けます)
懸り、は
己の心を下にし(神の盤座にする)
からだをカカリにし
神に座ってもらう、ようなことです
意識はほぼ「無我の安寧」にちかくなり
(瞑想の状態とは少し異なります)
呼吸は神の呼吸となり
チャクラで呼吸する
(魂で呼吸する)ことになります
審神者と呼ばれるものがいなければ
そうとう危ないことです
また
神懸のばあい
人の意思はいれてはなりません
神より低い意識は、
そうしたときに
邪魔となり、
さわりになったりしますから
盤座となるものの魂は
神がそこに座っている間は
ほかのところで
眠ていることが多いです
神のままにおこなわれ
審神者がはなすか、
神がはなれるのを待つようになります
……
神への信仰は
人と人との信頼とおなじもので
自然な敬意の発生です
ひととひとの流れには
年月をかけて信頼関係がうまれる、
これとおなじように
信仰には
信頼関係のようなものが
うまれるときがあります
(私はこれが
本来の神さまと人との
まことの関係性に思えます)
人知をこえて巨大なる方々への
敬意のある親しみとともに
そうしたことは、築かれる
ひとが、良い人を信頼していくように
神様もまた、人を見ています
(こよなく心良く)信仰深い人を
信頼されるのです……
信仰と、神様からの信頼をもって
深い信仰関係が
灯火になっていることもあり
(そうしたことは
充ちたりにあり
なんの欠けもなく、ゆがんでもいません
ですから、周りから見て
異様として
現れることはありません)
その灯火は
極自然に周りを温めるので、
周りの方も、そうした
神との関係を持つ方には
自然に、信頼をおかれるそうです
……
誰でも詣でられ
また教えをもらえる神社
「信仰の自由」がそこにはあります
本来の神と人との関係は
まさに、お寺や神社と人との関係のようです
人が、詣でたければ詣でて
その神気に、ありがたく触れて帰る
(なんにもなくても
神気に触れさせていただけるだけで
ありがたいもんです……)
ささやかで、自然な自由さ、
開放されていて
ただ、敬意をもたれている
そんな様子です
……
信頼ができるなぁ、って
人を思い浮かべてみると
信頼って、ものが
見えるかもしれません
神様って、そんな風合いの方々
個性豊かで、深みやいろどり
思いやりや、愛のある方々です
信頼を、大切にしていきたいですね
...
2018-01-18 16:42:56
...
ブラックシャーマニズムの神髄と、不動明王の生霊返し
(シャーマニズム)
温かな水であり、穏やかな焔であること
ブラックシャーマニズムの
良い例がないか
探していたら
ちょうどよく
不動明王の「生霊返し」の
神呪がみつかりました
Wikipedia不動明王の生霊返し
ブラックシャーマニズムは
このようなことです
(守護と、破魔)
シャーマニズムは
人間の霊性ですから
かならず、神とともにあり
神への祈りとともにあるものです
真心と、親愛とともに
……
そこに我欲、穢がありますと
己の骨、魂にかえります
……
この神呪は
親愛なるものをまもるこころ
邪悪から護るこころ、祈りをもって
活きるものです
……
ところで
不動明王(元シヴァ)さまの奥さんは
弁財天(元パールヴァティー)さま
なのですが
不動明王さまは焔であり
弁財天さまは水でありますね……
かれらが、ながく
親しまれている理由が
なんとなくわかる気がします
……
焔と水は、魂、
人間の真のところにあり
そこには、神のみのりがあり
そこに、霊性の場があります
こころ、温かでありましょうか
そこには、水と焔があり
そのまわりには
木々と土
風と金(みのりのさま)があります
……
こころのなか
灯火をともし
水がひえないように
水面しずかにし
鏡として、己をみつめ
よごれていたら
あらいながして
己を清め
焔
いっさいの汚れをもやしつくし
そこにおくことがない
……
この生霊返しの神呪は
この、魂のうちの
焔の特性を
あたたかにするものです
邪悪な念や、生霊や呪いは
冷え込んだ、とても冷たいものです
己の焔を
あたたかに灯すと
(見えない)気流がうまれ
冷え込んだものは
その気流のなか(命)には
たどり着けなくなります
……
まもりたい、という気持ちは
温かなものです
不動明王さま、
弁財天さまは
ちゃんとそこにいらっしゃる
命
見えない魂です
彼らにも、あたりまえに
良きものたちを
「護りたい」という
慈悲慈愛が、真に、活きてあります
……
本来のシャーマニズムは
この真理にもとづくものですから
温かなものであり
慈悲慈愛がなみなみとしているものです
護りたい、というのが
ブラックシャーマニズムの真髄
癒やしたい、というのが
ホワイトシャーマニズムの真髄、
心理とでも、いいましょうか
おおいなるものは
慈愛の大龍であり
良きものたちを
深く愛されている
学びあう為の、
異なりや差異をもつなか
他人や世界への愛に
心がヒタヒタと、なみなみすることは
難しいことです
それでも
もしも、おおいなるものと
おなじほど
他人や世界を愛したなら
そこにシャーマニズムは具現します
……
慈悲慈愛のもと
水と焔の性質を
ほどよく生きていきたいですね
...
2018-01-17 11:03:53
...
力のあるものの修行、ブラックシャーマニズムの真髄
(シャーマニズム)
力を持つ意味
力を持つものは
責任が問われます
……
ほんらいのブラックシャーマニズムは
攻撃性、悪魔性を
おとす、しずめるためにあり
己のそうした面と
向き合わなければ
開花しない霊性です
攻撃性、悪魔性を
つよめたり、暴走させたりするために
宿るわけではありません
(それは垢穢にすぎず
己の心場で、そうした心力と
向き合い、落とし方、鎮め方を
まなぶために現れるものです)
……
ちから、は
自覚と制御がとれて
はじめて美しいバランスを
たもちだします
暴走したり、
力にふりまわされるうちは
まだ、力を使えている、ことには
なりません
そうした方は
使って奉仕(仕事)をしてよいという
許可もされていません
車に振り回される方であれば
ほんらいは、
免許はあたえられませんよね
能力で社会と関わっても良い、という
許可を与えるのは
天界ですから、もっと厳しいです
無免の方や、
能力の制御、自覚がなく
振り回されている方に
お金をはらうことは
無意味なので
よく見抜いて、
回避されて下さいね……
……
ホワイトシャーマニズムと同じように
このシャーマニズムにも格があり
ホワイトシャーマニズムの
わずかな具現をもつかたが
光や愛であることに酔いしれ
逆に、醜さ弱さを「ないこと」にしたり
様々な思い込みや行為により
落ちていくように
ブラックシャーマニズムも
わずかな具現をもつかたは
たいてい、その攻撃性によいしれ
それを暴走させること(念や生霊、呪い)が
力だと誤解されることが多々あります、
しかし、
本来のブラックシャーマニズムは
その己の攻撃性と向き合い
対処力を培うことにより
他者のそれをも
対処できるようになること
ほかなりません
本来のホワイトシャーマニズムが
弁えと献身をもつ、
神々と生命のための生命力であるのを
自覚されているのと
おなじようなことです
「人の役に立てなければ
なんの意味もない」
力はそのようなものです
たとえ力に見えても
心とともに、磨いて、御せて
はじめて役に立てるもの
(どんなものもそうですね)
力に呑まれて、酔いしれて
依存しているのなら
役に立たない、意味がない
神々は「力をもつもの」に
厳しいので
そうした人たちは
容赦なく放任され
無意味なことを求めているよ、とは
教えてはくれなくなります……
(友達は教えてくれるかもしれません)
……
ブラックシャーマニズムは
気に入らないものや
敵にぶつけるもの、
そのためのちから、
では、ないのです
その真髄は、
どこまでも親愛なるものに
むいていなければなりません
ホワイトとおなじことです
エネミー(害悪)に
思えるものに
こころは、向けていては
いけないのです
どこまでも
親愛なるものに向ける
護るための心の場、
あるいは心愛に
芯をたてられなければ
おちていく
ホワイトでも、ブラックでも
かわりなく、
そこに芯がないなら
迷宮のなかで、
道筋がたてられないのと同じ
……
ブラックシャーマニズムは
いわば、
守護と破魔のちからです
ホワイトシャーマニズムの真力が、
真愛からあらわれる
神の治癒や、神の導きのながれ
そこに至らないとき、
能力者こそが
低俗なものの傀儡となるように
悪いエネルギーの破魔にいたらない
ましてや己の悪意すら
破魔できないものの
ブラックなシャーマニズムは
低級霊のえじきです
……
ところで
最大のブラックシャーマンが
よくおこなわれる
ブラックシャーマニズムは
ブラックユーモアだそうです
悪意の滑稽さを表にし
悪意やどすものに
その惨めさにきづかせ
なおかつ、
笑いにかえてしまうんですね
すざまじいことです
……
しかし、こうした能力にかぎらず
すべての能力もおなじことで
ちからは、どんなものでも
「誰かに真心をささげる」とか
そうしたことのために
開花するのだろう、と
私は思うのです、
心を表現したいから、というか
ここでいう「誰か」は
誰でもいいのです
自分だっていいのです
ただ
ちからは、「ちから」であり
それは己を飾るための
たんなる飾りではないんだと
思うんです
飾りとか、
二次的なものを求めていると
いつか、能力とは
別の道に迷い込んでしまう気がします
無意味なものを求めないように
生きていきたいですね……
...
2018-01-15 12:51:10
...
失わないでおきたい己の目
(noSeries)
私は多くのことは、わかりかねますが
賢明である行為というのは
見えないことごとには
とても大切になると思うのです、
それでも私は、
賢明でありつづけることは
到底無理なので、下の2つを
忘れないようにしています
身の程を知ること
また、相手を知ること
……
私の世界とともにあるかたは
見えない世界でラグナロクがあり
悪意、敵意が一掃されるため
現実には、争いが消え果てていく
そのように進化していく世界です
そのため、見えない界隈は
かなり入り乱れて
たくさんの流れが
混沌とし、うずまいています
悪意、敵意の源である
侵略者エイリアンと、悪魔は、
私達の同士討ちをねらい
また、私達をつかい
私達をおとす(金銭をうしなわせたり
幸運をうしなわせたり、
本来もたらされる閃きや知恵といった
最大の宝物をなくさせ、
才能をうしなわせたりする)ことを
つねにねらっています
侵略者エイリアンはとくに
そうした行為を好むようです
「友好をつたえながら」
何かを奪い続けようとするのが
侵略者エイリアンと
その傀儡さんの特徴です
……
見えない界隈の、現実の多くは、
あかされていませんし、かたられてもいません
(それは精神論ではなく
見えないだけの、現実の話です)
それは「自己責任」
己を持って理解しなければならない、
というのが
この世界には常々そこにあるからです
厳しい話ですが
己で把握することをやめ
与えられたことを鵜呑みにする方は
正直、もう、今の流れからすると
たいへん、古い、
その有り様が、世界に遅れてるんですよ……
(ダサいとかではなくて
見えない界隈にふれながら
そのようであるなら
見えない流れに
対処できなくなると思う)
……
ラグナロクを劣悪とする世界を
エイリアン方々は、構築されました
「争いのないこと」
(=侵略エイリアンや
悪魔といったものたちとも
ともに歩むこと)を
平和とされました
悪意敵意がないこと、
闇がないこと、を、
平和と思う方は
すこしだけ、このことに
ご自前の思慮を
さかれてみてください
ないことにすることと、
なくす(きよめはらう)ことは、まったく
違う作業となります
……
知ろうとすること、は
思考停止とは、真逆となります
思考停止しているときは
やたらに、既知の概念に
すがるようになります
とくにブログなんかは
そんなさまがあらわれやすい
ふと振り返ったとき
思考停止していることや
煽られたり
流れから
はなしている、ぐらい
わかるんじゃないかな、と
おもいます
ふと、振り返ることを
しているなら
……
ことば
己のことばに
己で、ふりかえるひとは
そこに、
神の助力があらわれる
つねに、あなたが
あなたを振り返る、なら
あなたの口から
あなたから
あらわれること、が
その時、その都度
あなたをたすけ
あなたに助言し
あなたの力となり
よき友のように
あなたが、あなたを助けられるようになり
あなたと、あなたを通り降りる助力の
二人分のちからで
歩めるようになるでしょう
……
自分を知ることは
百戦をくみかわすより
もっとも、己の実になり
己の助けとなります
また、どのような方であっても
向き合った相手を知ることは
相手とかかわるうえで
やはり、己の実となり
己を助けてくれます
現実をみる、とは
思い込みにすがらないことです
他人であれ、ことごとであれ
そうでないことや
そうであることに「すること」は
現実を見ることではありません
思考停止であり、
そうして、
そこにある概念に縋ることです
現実をみることが、
グランディングです
……
どうぞ、自前以外は自前でないこと
世界は確固たるものではなく
混沌にあることを
わすれないで、
お気をつけていらしてください
もしも、なにかあったら
一度、たちどまり、
ふりかえり
流されていないか、確認したり
状況を、見直してみると
良いかもしれません
現実をみて、知る
頭や気持ちではなく
己の知恵と能力、いのちを
うごかしてみること
大切にされてみてください
……
己が停止していないか、時々確認し
停止していたら、活をいれる
そんな感じでしょうか
……
己を磨き
己をもって、世界につくし
己をこそ、振り返る方は
かならず、
その身の力は深まりつづけ
その身から、あらわれることが
まわりのひとも
おのれのことも
助ける力になります
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……
★無礼、無遠慮、無作法
これは気にされる神様と
気にされない神様がいらっしゃいますが
神様は
人間の人生をこえて
時をすまい
また、人知をこえて
叡智をもたれている方々です
失敬なたいど、距離感のない言動
(たまにいますね、
自分は、
こう、神様に贔屓にされてんのよ、とか
私はスピだから、霊能力あるから
みたいな、気持ちでいる方は
これを踏みやすいです)
他人相手にも無礼、無遠慮、無作法な方
距離感のない方は
嫌われやすいものですし
誰かの威をかりて
己が大きくなったように思う方も
嫌われやすい
神さまも、こうしたことを
わりと倦厭されます
……
★「私はわかってる」みたいな態度
★「神様なんだから、人になにかしてあげて当たり前、私からつたえてあげる、与えてあげるから頂戴」みたいな態度
★「私がこの場を清めてあげる」みたいな態度
たいてい、無視されてますね
こうした態度をされる方々は、
満たされない欲や、
心に穴があったりするので
ケガレみたいのが
カモネギとばかりに
代わりに対応したりします
要注意ですね
とにかく「特別意識」や
「固定概念」は
厄介事になりやすいですね
……
★「スピリチュアル狂い」
★「霊能者気取り」
すいませんが
嫌われてます、
ご自分をよく見直してみてください
仔細は書きません、
ご自前で、わからなきゃならないことです
ご理解ください
……☆*・……
他人から見て
「異様」と思われる方は
神々天界からみても
異様なんです
他人からみて
「嫌だな」と思う方もそうです
信頼できない人は
神々天界からも
信頼できないんですよ
そうした方々に、神々天界は
力も、情報も、与えてないです
(たいてい、お仕事
無免ですね……)
(※……「信頼できない嫌な人」が、
他人を嫌う場合は
「人間の忌避感」ではなくて
悪意なので、
このタトエには
はいりません)
……
逆に「真面目に過ごしている人」
「普通に過ごしている人」は
好かれやすいです
……
「神様だからーーで当たり前」とか
「神様だからーーしてくれる」というのは
現実をみないような
固定概念ですから
捨てたほうが良いのかもしれません
他人に対して
「ーーしてくれて当たり前」とか
「ーーみたいな人」とか
決めつけられたら、
わりと不快な方は多いと思うのですが
神様も同じです
「されたら嫌なこと」は
誰に対しても、
気をつけて控えていき
「概念で決めつけず」
現実を見よう、理解しよう、とすると
わりと、ものごとは
明るくなっていく
さまざまな精神論より
ささやかな気配り、
心配りをするほうが
周りとの関係性も、運気も
整います
……
これから、神様は
ますます濃く、深くなられていきます
いまいちど己の姿を見直して
衿を正して
進んでいきたいですね