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見えないことの探求記 - 2017.33
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Series :
[ 私の話 ]
[ 記事シェア ]
[ 作品とともに ]
[ 審神者 ]
[ シャーマニズム ]
[ 夜の話 ]
[ 天部 ]
[ イエス様 ]
[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2017-11-12 06:36:17
...
心理百
(noSeries)
たとえば
言論の危険を
たまに思うのは、それが
人間の心理や情景を
単色に見せるからです
あと見えない界隈のことも
見えない存在のこともそうですが
ラベンリングのようなことは
ほぼ、現実には
当てはまらない
情報というのは
どうしても、切り抜かれたもので
端的な
側面的なツールですから
把握するために
つかえるツールでは
ないのでしょうね
その性質が、どうあがいても
きり抜きから逸脱できないことを
わすれた言論(意見)から
構築されたものは
とても危険な「見失い」を
伴っている
……
私は現実を伴う人が
どうも好きですから
ことばにはないところ
「現実」や「生活」への
日常力のようなものが
うかがえる人が
良いなとおもいます
……
ですから
見えないものをあらわすときに
どうしても
文書は、物語になり
絵画は、追いかけるようになり
音楽は、どんなものより
彼らをとらえはじめる……
ことば、に
かれらが「あらわれる」としたら
それは詩歌が
もっとも近く
現れやすいでしょうね
……
意見、や、言論は
切り抜きの質であり
すべての質ではないことを
覚えておくと
なんか楽しくなります
質。
内包できること、のような
そんなものでしょうか
……
意見は、情報は
じゃあなんだというと
概念の切抜きです
悪いはとかじゃないです
世界や現実ではないだけです
...
2017-11-12 06:12:05
...
信じてみればいい
(noSeries)
完全な善意というのは
出会い難いもので
あるにはあるのですが
希少な宝石のように
そうそう、ありません
そんなものをあてにしたり
無意識にもとめたりは
ただ、ただ
ナンセンスになる
宝くじ
生活をたよるために
毎回何万をつぎこんで
当たるのを待つような
そんなナンセンスさです
……
たとえば、
相手を
知りたければ
完全に疑うか
完全に信頼するか
してみるといいのです
しかし一心で集約された心というのは
完全な善意とおなじく
希少なもので
人間ですと
なかなかもちえません
集中力は
研磨のように人を光らせますが
一心一色、という極地こそが
もしかしたら
たしかな高みだから
なのかもしれません
……
完全な疑いも
完全な信頼も
炙り出しをもたらします
すなわち、一色の一心は
ナニカを前にして
背景に敷かれた単色のように
相手のみを切り抜くようです
景色(情景という情報)に
誤魔化されない……
……
私は疑う、ということも
信頼、ということも
ある種の能力であり
心理ではないのではないかと
思っています
いわば心の力でしょうか
信頼している、とか
疑ってみてます、とか
言葉だけなら
だれでもしているのですが
信頼を、している、を
しているひとも
疑いを、もってみる、を
しているひとも
そうそうは見かけません
腹底の心力のようなことは
いつも、むしろ
言葉には
なりがたいようです
……
なんにせよ
たいていは心は、たくさんの色を持つ
時々によりかわりながら
一刻一刻
たくさんたくさん
あるわけで
たくさんあるうちの
なにかがあらわれて
情景の模様を描いている
……
人間の、己のも、ひとのも
心を単色に見積もるのは
なにかとてもそぐわない
いけん、は
いつも単色めいて
積み重なりますが
つねに、だれでも
落語でいうなら、ふら
心理幅を持つのではないでしょうか
私はそれこそ
希望に思えますから
人間の心は、表からは
どう見えても
たいてい、単色ではないこと
忘れないようにしています
...
2017-11-03 04:23:43
...
邪悪は怒りを受け付けない
(noSeries)
鬼瓦、あるいは
魔除けのものに
よく鬼面、憤怒のそうが
表現されているのですが
私は、これが
ずっと不思議だったのです
(なんで憤怒の相ぐらいで、
魔除けになるのだろう、と)
見えない界隈に散策を重ねるうち
「邪悪」は
「怒り」を
完全に、まったくもって
受け付けられないらしいことが
よく分かりまして
今回、このことを
シェアしたくて
記事にしてみています
……
(※私は闇を二種類にみています
ひとつが、邪悪、
ひとつが、自然なもの、です)
……
私は、まっとうに怒る方と
わりとよく関わってきたので
邪な苛立ち、不埒なムカつきと
まっとうな怒りには
ことなりがあり
まっとうな怒りは
むしろ必要なもので
温かいものだと、いうことを
さまざまに
経験してきたのですが
邪悪はこの
まっとうさが
エゴイズムやナルシズムに
不埒さが
優しさや思いやりに
とれるらしく
たとえば
不動明王の憤怒さえ
邪悪にしてみると
「差別」であり
「エゴの押しつけ」に
見えるようです
それで、
よく、邪悪は
神々や精霊に
怒られているのですが
邪悪からすると
そうした怒りをもつ神々は
神々でなく
悪魔になり
神々に対し、
そう、罵りをおこなっています
……
私は人間ですが
他人様のことは
たいはんもわかりません
それでも
温かさのやどる
まっとうな怒りを
浴びずに来れる人間というのは
いるものでしょうか、と
疑問を思います
つまり、ひとであり
人と関わりがあったなら
真摯な怒り、まっとうな怒りを
いくどか経験しているのではないかと
だからこそ
不埒や邪悪といった
エゴイズムと
そうした真摯なものを
人間らしさ、に
たちもどれば
誰でも、
分けて見て取れるんではないかと
思うのです
(エゴとまっとうな怒りを
混濁される、ということは
欲望と真っ当さが
見分けられなくなってる
それは、
そのときは、どこか、足場が
混乱しているのではないか、
やわいでいるだけなのではないかと)
……
鬼瓦や、まよけの「憤怒」が
なぜ、魔除けになるのか、は
ようやく、みてとれまして
邪悪は「まっとうな怒り」を
ほんとうに、ねっから、
こんげんから、存在している根っから
「受け入れることができない」らしく
そのため
「まっとうな怒り」のまえに
削ごうとしたり、
避けようとしたり
するところがあるのです
(※エゴや不埒な苛立ちは
逆に寄せます)
邪悪なエネルギー体は
邪悪であることが
存在していること、と
イコールのようです
ですから
邪悪(※不埒、エゴ)を怒られると
エネルギーが
消えていってしまうのでしょう
それで、
憤怒の相(現し)だけであっても
邪悪にたいしては
効果があるようです
……
逆に、静謐な精霊や神々は
人間からのものであれ
生命からのものであれ
怒りに対し、大変真摯です
そうした神々と
リンクがある方も
真摯な怒りには
真摯な態度をもたれる
(それは
怒り、に、
とらわれてないためでしょう
うわべの感情ではなく
根にある真摯さをみている
真摯さを
報おうとされる)
(真摯に真摯を
かえそうとされる
誠実さこそが
神々から触れられる心根なのかも
知れません)
彼等は、まっとうな怒りを
きちんと、心にもたれ
伝えようと表現にとりくみますし
否認されることもありません
真っ当であるからこそ
ひとのも、己のも、怒りを
受け入れることが出来るようです
……
だそくですが
どうも、邪悪は、逆に
リンクにある方からは
真剣な怒りや、真っ当さを
削ぎ落としにかかるようです
(※真っ当さは
イコール常識ではありません)
もしも真っ当さ、人間性を
そがれたり
真っ当な心に対し
その思いをもったものの
人格の責任にされるような
口車をあびせられて
混濁におとされるようなことが
ありましたら
それに惑わされず、
ひとりひとりのもつ、
真っ当さ、人間性に
いちど、立ち戻り
現実をみなおされると
良いかもしれません
...
2017-10-31 23:11:40
...
かわりときの情報誤差
(noSeries)
コンテンツ…ともに
いままでと
これから
見えない世界は
おおはばに
変わっていきます
「情報」が
目の前や
おとずれた経験
ひとりひとりの「現実」と
あわないことが
あるかもしれません
そんなときは
情報のほうを「一度おいておいて」
現実を見直してみてください
:
「競合による喧噪」は
おこらなくなるように思えます
もともと、経験していることが
「競合をおこしているから
喧噪が発生する」ことを
なくしていくために
世界はわかれたといわれます
ひとりひとり、
与えられているものが
すべて、大切なためでしょう
:
情報が
どの世界からのもので
どの世界にいる人向けのものか、で
ひとりひとり、違和感があったり
現実とあわなくなったり
イママデの情報が古く感じられたり
しばらくすると
そうした情報の誤差も
収まっていくようです……
……
「ひと」は
そのひとのいる世界や現実が
背中にあります
ですから
「人からのもの」に
「合わせる」必要はなくて
自分の世界と、現実に
つかえるもの、良いモノを
取捨選択していくと
良いかもしれません
……
「接続」と「隣りにいる」は
まるで、全然、違うことで
これから「接続」から
「隣りにいる」世界になるらしい
……
そうすると「接続」して
コミュニケーションしていた時と
異なることが
起きるのかなぁ、と思うのです
そのときは
イママデの、接続型からくる
経験則や、知恵を
一度、わきにおいて
クリアにしてから
関係を築こうとしてみると
良いのかなぁ、と
接続してみようとする、と
関係を築こうとする、では
判断方法も、
やり方も、護り方も
まるで、違うから
新しいことがおきたら
新しくやってみるほうが
きっと
飲み込みやすいんではないか、と
なんか、新しいことがあって
こうしたことをやってみたら
また描いてみようかなと
思っています
...
2017-10-30 05:08:11
...
魔境と釈迦 & 現実と「ウソ」のギャップ
(釈迦)
魔境の話をすることは
とても難しいです
ただ、もしかしたら
どこかで
ツールになるかもしれないので
なんとかしてみようと思います
……
もともとエネルギーには
かたちがありません
かたちを象るのは
形を持つ側
つまり、脳ミソです
脳ミソのなかの
概念が、
エネルギーに具体をあたえ
象りをもたらす
……
悟りと魔境は密接な関係があり
魔境をはあくするなら
悟りについても
把握しなければ
片手落ちになります
悟りとは
釈迦の到達した極地です
それを目指すとき
脳ミソのつくる概念の
ことごとくは
邪魔となります
ですから
悟りをめざすとき
あらわれる
エネルギーの象り
(=概念のあらわれ)を
魔境とし
なにもかも投げ捨てる、
うけながす、と
言われています
悟り、が
概念のすべてを
越えた状態だからです
概念からくるものを
すべて、受け入れて
流さなければ
そこには到達しえないのです
……
霊性の開花と
さとりは
同一ではありません
さとりは概念を越えたところで
霊性の開花は
概念を道具として
見えない界隈に
かんしょうをもたらす
ふれられる、
かんしょうをおこせる
ならば
そこに道具をもたらせること
その道具が
概念をとおしたイメージであり
想念であります
……
悟りと、開花は
まるで別物ですから
どちらかが
どちらかに
競合をおこすことは
ありません
(開花したあと
悟りの道をめざしますと
己の概念が、目に見えて
わかりやすいので
逆にやりやすいかもしれません)
……
わたしは
あまり、ひとのことも
世界のことも
干渉する気はないのですが
(現実にあるものを)
わかっても、ふれてもないのに
伝え聞いたり、軽く触れて
「知った気がする」だけで
ものをすると
現実には、混乱をもたらすので
私は、
根拠が、どこからか仕入れた
伝言ゲームっぽいというか
知ったかぶりのような
身がなさそうな話は
仕入れても、流した方が、
このさきは
過ごしやすいかもしれないと
思います
現実にあらわれることが
噂を聞いて、つくりあげた程度の
「知ったかぶりの話」では
追いつかなくなるのではないかと
感じているからです
それは、見えないことごとくであれ
現実のことであれ、です
(しかし、もともと、私には
「噂からの作り話」は
混乱をうむだけで
現実には、なんの
役にも立っていないように
思えます
いつも、そうした話は
現実においついてない
これから、もしかしたら
そうした、身のない
噂からの作り話や
思い込み
つまり、ウソのある話は、
現実と違いがあることが
もう少し具体的に、明確に
ハッキリしてくるんじゃないかなぁと
思います
現実とのギャップ
情報と状況で混乱したときは
「話」を
いちど、捨てきって
現実を己でとらえなおし
見なおすと良いかもしれません)
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言論の危険を
たまに思うのは、それが
人間の心理や情景を
単色に見せるからです
あと見えない界隈のことも
見えない存在のこともそうですが
ラベンリングのようなことは
ほぼ、現実には
当てはまらない
情報というのは
どうしても、切り抜かれたもので
端的な
側面的なツールですから
把握するために
つかえるツールでは
ないのでしょうね
その性質が、どうあがいても
きり抜きから逸脱できないことを
わすれた言論(意見)から
構築されたものは
とても危険な「見失い」を
伴っている
……
私は現実を伴う人が
どうも好きですから
ことばにはないところ
「現実」や「生活」への
日常力のようなものが
うかがえる人が
良いなとおもいます
……
ですから
見えないものをあらわすときに
どうしても
文書は、物語になり
絵画は、追いかけるようになり
音楽は、どんなものより
彼らをとらえはじめる……
ことば、に
かれらが「あらわれる」としたら
それは詩歌が
もっとも近く
現れやすいでしょうね
……
意見、や、言論は
切り抜きの質であり
すべての質ではないことを
覚えておくと
なんか楽しくなります
質。
内包できること、のような
そんなものでしょうか
……
意見は、情報は
じゃあなんだというと
概念の切抜きです
悪いはとかじゃないです
世界や現実ではないだけです