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見えないことの探求記 - 2017.31
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[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2017-10-21 02:00:55
...
きらいなもの
(noSeries)
内心の神聖にふれれるなら
外在の神聖にもふれれるし
また、邪悪は
状況と状態により
わきたつもので
「魂にあるもの」ではない
だから
きえない
けせないものだ、と
いうことにも
ふれるよ
……
(あるんだったら
けせるんだけど
外と内の関係性で
「沸く」ものだから
最初から、
命の魂や心は
それを持って無いの
だから、生涯
沸くことを見つめ、
気をつけることはできても
消し切ることは
ありえないの)
……
「私は善人」は
わかりやすい
邪悪だよ
……
人間は
生涯、邪悪におちきることも
神聖になりきることも
ないよ
……
生きている人の
精神性の追求が
かならず、
矛盾をはらむのは
生きているかぎり、
人は、生涯、神聖善には
達し得ないからだよ
……
(だからこそ、
精神性の美学を
他人に宣うなら
その時点で
ろくでもないんだけどね)
(その知識(観念)で
他人の姿を
みている
時点で
ろくでもないのよ
精神性の美学から
はなれてんの)←(根源矛盾)
(出来てから
自分が、出来てから
身に付いてから
言葉をつかうようにすると
違う風が
でてくるけれどね)
……
ひとり
自分の内だけが
神聖かというと
そうじゃない
「内にも外にも」
神聖はあり、
神様は、
みえないだけで
現実にいるよ
...
2017-10-21 00:30:06
...
たましいの声と、自己保身の言葉
(noSeries)
愛する
まず、
他人のことを
下に分けるなら
自分を、上におけることを
欲している
思いやりは
自分は、善良なんだ、
っていう
思い込みに生きている時は
わかない
思い込めることを
欲しっている
心の裏があれば
ともらない、わいていない
……
私は善良で
ひとを、
愛しているんだって
思い込みに
生きていると
心根にある生命の愛に
触れることが
できなくなる
それはたんなる
苦痛による、
善人感への逃避にすぎない
……
たましい、
「自分に善人感がある」か
どうか、ではなくて
魂に
触れたかどうかにすぎない
……
力があるとき
「善人感への逃避」を
もとめれば
轍を踏む
魂で生きたいのなら
自分のも、ひとのも
現実をみて
そのこころの
たましいの声の
言葉をしたほうが
良い
……
自分への善人感を
たもち直す言葉とか
自己保身の言葉とか
そうしたものは
削ぎ落とす
……
言葉は、
裏側になにがあるか
何かを、その言葉で
つくりたがっているのか
欲しているのか
それとも、声か
言葉を、見極める
言の葉にかくれた
こころが
重要なものを
やどしている
...
2017-10-19 01:45:20
...
安心しながら
(noSeries)
祟りも、神様に怒られることも
カルマを背負うことも
怖いことではなくて
なんかしちまったから
かえってくることが
ある、だけで
そうなっているって
だけに過ぎない
そんなものは
怯えないでいいんだと
私は思う
怖い怖いって
しないように
生きるのは
しんどいじゃないか
だいたい
カルマ、というのは
ひとに、せけんに
しちまったこと、な
もんだから
魂だけになると
人は
自分から、
償いたいとも
云うらしい
祟りも
たんに、ひとが
しちまったことにたいして、
返済の波としてあらわれる
みたいなもんだから
きちんと、償い方もあるし
解決、解消の仕方がある
神様の怒りなんか
愛されている命にとっては
温かいよ
有り難いもんだよ
……
どんな思いや念をもたらされても
こわいもんは、ないよ
一番怖いのは
悪意だよ
悪意は
天からうまれるものでも
授かるものでもないから
悪意は、みなもとにかえらない
かえれない
だからそれだけ
気をつけりゃいいんだよ
...
2017-10-11 23:49:35
...
「神様が、いった」
(noSeries)
前の記事の続きになりますが
ひとには
それぞれの神様がいらっしゃいます
守護霊というのは
いわば仏様です
傍らにともにある守護霊とことなり、
神々は上の方にいらっしゃるので
めったに感じることはありませんが
それでも、お一人お一人を見守る
神様、如来さまがいらっしゃる
……
イレギュラーでもなければ
生まれにより
「見守る方」が決まります
「干支」とリンクしてある
十二支の守護尊なんかは
有名ですね
「産まれること」を
見守り、受けてくださったのは
産まれたときの
氏神さまです
こまったときは
遠方の神様より
産まれを観守られた
氏神さまや
今の生活を見守られている
氏神さまのほうが
その人を理解し、頼りを
与えてくださることの方が多いです
……
こうした守護は
そのひとのためにあります
たとえば
ことばにより関わることが
そのひとにとって
学びや良きことになるなら
かれらは会話をされます
(神様は
人間側がキャパをひろげなければ
受け取ることができないので
たいていは、守護霊方々がされます)
「こうだ」ということは
ありえないのです
人の数だけ人生があり
学び方や日々があります
神々はいつも「そのひと」を
みて、
そのひとにあったものを
さしだされる
「ひと」の目の前にあることは
そのひとにあうように
さしだされたものですから
「他の人にとってもそうだ」とは
なりません
……
共通規則(マナー)のようなものはありますが
……
前の記事に
祟られる条件を書きました
その追記ですが
「神様がいった」など
神様の行為を嘯くことも
祟りでの返済に
あることがあります
ふざけ話や
創話なら、踏みはしません
相手の人を
信じさせる状態にあるとき
つまり、啓蒙者や
ミエナイことをされているかた
そうした話により
まわりに、影響がでるかた
こうした立場で
「神様が言った」とか
なにがしかに
「神様のご意思(お心)」をみたて、
周りにつたえる場合
とくに神名をだされると
神様にたいし
侮辱をなしてしまうことがあり
この世からの返済として
祟りがもたらされます
...
2017-10-11 07:30:21
...
精算への返済
(noSeries)
故意でなかったり
エゴでなかったのなら
神様のことについて
踏んでしまったとしても
それほどの精算は起きません
それでも
起きてしまったとしても
情報をまちがえていたのなり
おもいこみを
してしまっていたのなら
間違いをみとめ
それを、影響を
おとしてしまったところに
あらわしたりするだけでも
精算は、解消されていきます
たいていは
精算にすぎません
ですから、行為にたいして
つぐなうことができたら
解消することも多いのです
……
故意の嘘や、エゴ
なかには無意識のうちに
怒らせるようなことを
繰り返す方もいます
そうした方は
祟られる必要があったり
そこに
うけとったり
学ばなければならない何かが
あったりするのでしょうね
……
現実のひとつに
「どんな人も愛されている」が
あります
だから
愛せなくても
あるいは
誰かに愛されなくても
通り過ぎて良いのだと思うのです
そのひとは
かならず、どこかしらかで
愛されているので
愛せないなら
無理やり、するより
愛せないままに
愛されないなら
愛されないままに
相手を手放される方が
優しい結果になることも
あるのです
……
親愛に敬意
神々は千差万別で
捨てる神あれば
拾う神あり、のとおり
愛せるものが
愛をあたている
私は
それが見えているのなら
そうそう、
人にむごいことはできない、と
思うのです
嘘を教えるとか
暴威をこうむらせるとか……
間違った道に
引きずり込むとか
慈愛は、尊いものです
わかるのなら
目の前の、ひとりひとりの
いのちが
なにがしかの
天なるものに
大切にされ
慈しまれていることを
見受けられるのなら
自然に、
身が引き締まるのではないかと
思うのです
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外在の神聖にもふれれるし
また、邪悪は
状況と状態により
わきたつもので
「魂にあるもの」ではない
だから
きえない
けせないものだ、と
いうことにも
ふれるよ
……
(あるんだったら
けせるんだけど
外と内の関係性で
「沸く」ものだから
最初から、
命の魂や心は
それを持って無いの
だから、生涯
沸くことを見つめ、
気をつけることはできても
消し切ることは
ありえないの)
……
「私は善人」は
わかりやすい
邪悪だよ
……
人間は
生涯、邪悪におちきることも
神聖になりきることも
ないよ
……
生きている人の
精神性の追求が
かならず、
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生きているかぎり、
人は、生涯、神聖善には
達し得ないからだよ
……
(だからこそ、
精神性の美学を
他人に宣うなら
その時点で
ろくでもないんだけどね)
(その知識(観念)で
他人の姿を
みている時点で
ろくでもないのよ
精神性の美学から
はなれてんの)←(根源矛盾)
(出来てから
自分が、出来てから
身に付いてから
言葉をつかうようにすると
違う風が
でてくるけれどね)
……
ひとり
自分の内だけが
神聖かというと
そうじゃない
「内にも外にも」
神聖はあり、
神様は、
みえないだけで
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