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見えないことの探求記 - 2017.27
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Series :
[ 私の話 ]
[ 記事シェア ]
[ 作品とともに ]
[ 審神者 ]
[ シャーマニズム ]
[ 夜の話 ]
[ 天部 ]
[ イエス様 ]
[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2017-09-27 03:46:58
...
下しか見たくないから下しか見えない
(noSeries)
上には上があるから
かならず
上を見ようとすれば
上が見える
……
人が、できていない、とか
人が、しらない、という
立ち位置が
現しに、頻繁にあらわれているなら
それを、象る心に
「下を見たい」というのがある
みたいから、みえる
できている人、上ばかりを
見たがる人は
逆に「出来ない人」、
下が見えない
……
どちらも存在している
……
欲は
わかりやすいようには
あらわれない
いつもひそんでいて
みたくなければ
みえない
象る心が
かたどり、
それを、現したとき
そこにいる
欲のすがたが
掠めうく
...
2017-09-27 03:42:47
...
蛇言
(noSeries)
見分けや区分けがついてない
つかない、なら、
形のない世界に
行為ができるひとではない
形のない世界は
形も概念もないから
見分けがつかない能力というのは
死ぬ気の力、自滅の力
呪詛のほうの力で
そこに祝福はない
たとえば
先に書いた精神性と行為の違いとか
ああしたことも
その世界にかんしょうができるなら
きちんと、見分けられる
それが、そもそも
ないのなら
死への賞賛からくる力なので
ひとを祝福することにも
己を祝福することにも
いたらない
よいものと、わるいもの、という
ふたつではなくて
さまざまを
ひとつひとつ
瓶は瓶、亀は亀
そんなふう
……
形のない世界は
とても危うい世界で
だからこそ
実力しか
ものをいわないし
力がなければ
くわれておわる
ネガティブな話
自力がなくても
いくつかの方向から
つながることはできて
たとえば
死にたいとか
死滅したい、とか
そんなふうでも
つながることもあるし
力をもつこともある
それはしかし呪いにしかならない
……
呪いしかもてないものは
根源に「死にたさ」がある
「死滅」もある
それはネガティブで
おりおりに
悪意にもかわり
ひどく、うろんで
くるしんでいる
……
どちらなのかは
「他人を認められるか」に
見据えられる
...
2017-09-27 03:19:39
...
精神性世界と、形のない世界
(noSeries)
何かができる、というのと
精神性というのは
別の次元のもので
本来は、比較の対には
ならない
精神性をもとめていくと
階段をあがるように
できることが深まったり
増えたりするのだけれど
精神性とできることを
比較の対として
上げるなら、その時点で
誤認があるのだと思う
……
精神性は
思想、思慮、哲学、智識
「概念」と友になりやすい
できること、というのは
現実であり
また行為
……
形なき世界は
概念がない
エネルギーに
なにがしかの
かんしょうができる、というのは
形なき世界に
なにがしかの行為ができて
その結果、ものごとが
かわる
手で触れたり
足で歩いたり
目でみたり、みぬいたり
コミュニケーションがとれたり
そうした世界に
そうした行為ができる
……
その世界は
概念がないため
精神性の世界とは
ぜんぜん、別のもの
別次元のもので
イコールにはならない
精神性の世界は
概念をもさくしたり
概念と概念のはざまで
なやんだり
くみとったりして
精神をみがくことに尽力している
概念がなければ
精神性の世界には
触れれないかというと
そうでもないのだけれど
とにかくなにがしかの
概念があれば
それにより精神性を象ることができる
精神性をかたどると
みえるのは
他人のすがたではなくて
己の精神や心の姿
まわりを象ることにより
己を浮き彫りにして
みすえる
己の知りざるを知るような
そんなところがある
……
形のない世界と
精神性という象りの世界は、
対になるようで
ならない
象りの世界の
とある境地から
形のない世界に
触れる方はいるが
形のない世界は
概念がないため
概念を手放す、すなわち
思考のない
無心の状態になれなければ
受け取ることはできない
……
無心は
形のない世界に
触れるための作法のようなもので
形をいっかい手放す
こころを象るものを
手放す
それは雑念や意識ではなくて
たんなる集中になる
傾聴ににているか
……
悟性と誤認される時もあるけれど
無心は悟性ではないと思う
むしろ訓練、修練で身につく……
柔道のカタのようなものだと思う
……
私は、悟りのことは
しらないけれど
たぶん、それは
象りながら
己を研磨し
質をたかめていく
精神性の世界と
象りではなく、行為により
心や魂の力や
実態を研磨していく
形のない世界の
邂逅なんではないかと思う
...
2017-09-22 01:48:28
...
悪意がネガティブ
(noSeries)
ほんらいは
天界の許可がないと
さまざまは動けませんし
許可もないのに
うごいたら危ないことになります
それは天界が罰する、のではなくて
たんに見分けがないから危ないのです
……
ひとは
気に入らない人と触れたり
攻撃をあたえられたり
さまざまな時々
ひとへの悪意を持ちます
これがネガティブ・エネルギーなのですが
このときに
祟りのエネルギーに
シンクロする人と
呪いのエネルギーに
シンクロする人でわかれ
なおかつ、
そのエネルギーを
おもてにするとき
「エネルギーを清解、消火する」行為と
「世に災いとして流す」行為で
わかれています
あぶないのは
これが
「ちょっとしたこと」に過ぎない
またそれを感じているときは
たいてい
「悪意を持つ側」ではなく
「相手が悪い」側に居ますから
自分は「正しい行いをしている」になり
恥もない
一般的な方の場合
天はそれほど厳しくはありませんが
見えない領域に
手を加えることを
されているとき
この「無意識」な「悪意」の
ありようで
かえるものが
まったくかわります
……
こうしたことは
言葉ではなく、
内心のエネルギーですから
うわべの態度や
言動でごまかせる事はありません
ほんらい、
見えない領域に手を加えることが
できるのであれば
「いま、なんのエネルギー状態か」
「それをどうしているか」は
自覚がつきますし
またしなければなりません
……
あぶないのは
「悪意がかえる」からではなく
「悪意を流す」からです
見えない領域に
かんしょうする、ということは
多かれ少なかれ
己の悪意が、
領域に影響をもちます
もちろん
その悪意は天意とともに
己にかえりますが
それよりも、
かんしょうできるからこそ
悪意を無造作に顕せば
影響が濃いことが
問われるのです
……
見えないものをみるものは
「信じないでください」とか
「責任はじぶんです」とか
どんな言葉を連ねても
ひとに、影響をもたらします
そうしたことに
一般の方は
問題はありませんし
責任はないのです
自然だからです
自分よりものが見えているひと
自分より力がある人
自分より出来ることがある人に
影響をうけることは
人間のもつ
自然な性質だからです
かかわることによる
事事の責任は、
かならず
見えないものに
かんしょうする側
力がある側に
もたされる
信じられても、依存されても
自立されても、不信されても
どんな影響を、人にあたえたか
それは、力と
かんしょうをおこした側の
責任になります
一般の方に
見えないことへの責任は
ありません
……
見えないものをみたり
見えないものにかんしょうできるなら
ひとにも、現実にも
些細な言動でさえ
「とても影響をもたらすんだよ」というのが
とても、だいじなことで
そこが
把握できると
ちがうのです
……
「悪意」は「相手が悪い」です
……
さて、その上で
ここから面白い話をしますが
祟りにシンクロする人と
呪いにシンクロする人とで
わかれている話をしました
それぞれ、
「そのまま悪いことを
悪いまま、流す」なら
災いをつくりあげます
が、「清濁あわせてひととなり」
のんで、のまれて
己の姿にそれを見つけて
消費、消化、
消火できますなら
果実をつくりあげます
私は祟りにシンクロがあります
祟りにシンクロする方は
「不動明王」のほうへむかい
その憤怒のお姿をみならいますと、
憎悪(相手がにくたらしい、
相手が悪いという悪意)が
消化(自分へも注意など)に
かわりやすくなります
呪いにシンクロする方は
私が見ただけですが
「人を愛し護るために呪詛をもつ」大神が
いらっしゃるので
そのご姿勢に学ばれると
憎たらしく、から
慈愛ゆえんの「注意」に
代わるかとおもわれます
...
2017-09-21 05:17:46
...
これまでのあらすじ
(noSeries)
何度か書いたけれど
私は天神がなにものでも
私の頭がおかしくて
そこに見えるんだとしても
別に良かった
天神は温かくて
信じられる生命だった
「なんであるか」じゃ
ないんだよ
人間の友達も、仲間も
「なにものであるか」は
関係ないんだよ
……
心の皿が壊れたのは
たんにブラック企業につとめきって
何日も寝てないとか
そんなことで壊れた
体は、やばい。
酷使が、やばい
精神論より
肉体論だよ、とくに
睡眠なくなるとマジでヤバイ
タクシーで朝帰りして
何故か涙が流れて
きちょうな睡眠時間が
泣いて終わり
朝五時にでる、とか
今思うとコワスギ。
ここで重要なことは
「精神論より肉体」です
精神論ヨエー……です
とにかく、休んで
とにかく、たべないと
人間の頭は体にあるから
ものにヒビが割れるごとく
キます。
壊れるなんて
とても単純で
気持ちの問題じゃなくて
ぶったいの、酷使の連続で
ぶったい的に、壊れるのよ……
……
私は、これだけはやめとけといえる、
眠らないことだけは
それだけは、やめたほうがいい!
ぜったい止めたほうがいい
……
その後
いろいろな経緯があって
休養にはいって
天神とのらりくらり
会話したり
天神が教えてくれる
勉強みたいなことをしたりして
ただ、ひたすら
毎日に集中していたら
しばらくしたら
手からなんか出た
ヒーリングエネルギーというらしいが
とにかくなんか出た
なんか出た感が半端なかった
(※肉体酷使のせいではなく
天神のせいらしいです
念のため)
……
何年間かとにかく
自分のコントロールと
確かめを続けて
ネットに復帰して
いろんな情報をしらべて
「ここらへんかな」と
おもわれる情報を
いろいろ、しらべて
最終的に
「全然違うわ」になった
ネットの情報(他の人のこと)と
自分の現実が、違いすぎたため
「人は人、己は己」にもどって
いまは、天神との学びに戻ってる
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