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見えないことの探求記 - 2017.19
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[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2017-07-28 20:24:59
...
【エネルギーの物語】ぶどう
(エネルギーの物語)
エネルギー界隈は
延々とつづく
ぶどうの房のように分かれていて
薄い被膜で
たがいたがいに
ふさがれています
ひとつひとつの房の中に
ひとりひとり
人が行き交っております
私たちは現実で
たがいに出会いますが
なかの、エネルギー界隈は
房ごとですから
もしかしたら
全然違う界隈かもしれません
ふさ
エネルギー界隈により
「状況」はことなります
私の居る房では
先に向かうものと
悪に落ちていくものたちでわかれ
方々は懸命に学びあって
心を高めるような界隈です
ですから私の居るふさでは
「悪魔」というエネルギー体がおり
それが「悪人」をつくり
「ひっかかるもの」をおとしています
「悪魔」エネルギーは
フックのようなものがあって
そのフックを
ひとのエゴイズムとナルシズムが
重なり合ったようなエネルギーに
ひっかけて、
ずるずる、悪の方へ、すこしずつ
気づかないように
おとしていくのです
エネルギーのふさ(界隈)により
状況はかわりますから
見えない界隈で働かれる方々の
「世界の把握の仕方が違う」のは
房がちがうためです
「悪魔がいない房」というのも
存在しています
(どのような形で
進むのかはわかりませんが)
(※悪魔は
エゴイズムとナルシズムに対する
仕置としておりますから
進ませるために居るようなものです……)
(※落ちていく途中でも
エゴイズムとナルシズムに気づき
修正がききましたら
フックもはずれます)
また「神がいない房」というのも
存在しているようです
「内在する魂(神性)しかない」界隈も
隣接する房でしたら
人は行き来することが可能です
あまりに遠い房のことでしたら
飲み込むこともできません
(まるで世界が違う感じ)
隣接する房の「世界」の話は
「なんとなくわかるけど
いろいろと違う」ふうです
房がことなる方々と出会ったり
話したりするのは
学ぶためのようです
...
2017-07-27 04:20:54
...
【エネルギーの物語】否のエネルギー★人を否定するとき、認めながら、伝えることがある
(エネルギーの物語)
否は、いわば
青色のつめたい、刃のようなエネルギーです
これにあたりますと
心身のどこかが削ぎ落とされたり
傷ついたりしますから、嫌う方も多い
でも、まっとまうな否は
ひとの心身のエネルギーから
邪魔なもの、まちがい、不浄、よくないもの
を、そぎおとします
否のエネルギーを使える達人は
日本刀をもち、ひとの周囲で
舞い踊るがごとく
「その人を、傷つけず」
「その人でないもの」をよりわけ
削ぐことができます
「冷水をかぶせられたように、
目が覚めた」など
そうした「否」には
人は、自然に感謝をおぼえます
そこにあるのは
「人を否定する」ことではなく
「人を見抜いて、人に戻す」
いわば
相手への理解と
完全な「そのひと」への肯定で
根源的なものが
「認めている、存在の祝福」
じぶんが、じぶんでないもので
ブヨブヨになってしまったとき
「そのひと」を認めているひとは
「否」により、ブヨブヨの部分だけを
削ぐことができます
その人に戻す
当初は耳に痛くても、
すこしずつ、「あたたかさ」が
よみがえるのが
そうした「否」の特徴です
……
「怒らないこと」は
良いことではありません
「なんにも怒らない人」は
たいへんな嘘を抱えているからです
……
私は、
されたら嫌なことを伝えること
あるいは、じぶんの気持ちや、意見を、
ちゃんと、「相手を認めながら」
伝えられることが
理想です
……
逆に、肯定でも、人を迷わすもの
苦しみを、もたらすものがあります
「否」は、ふつうのひとでも
「それ」をもちやすいので
わかりやすいのですが
おもてむきの「肯定」からだと
「それ」が、わかりづらいため
たいてい、「肯定感」にごまかされます、が
「それ」が根源にあると
「否定」はもちろんのこと
肯定であっても
あるいはどんな
「ことば」や「態度」であっても
ひとを苦しめ、傷つけます
そのひとらしさ、や、
そのひとであることをも、傷つけます
ですから、「それ」が宿るエネルギーが
なんであれ
他者からぶつけられますと
ひとは、苦しみます
(悩みになったりもします)
「それ」は、「そのひとの存在否定」であり
根源的な「人格否定」のエネルギーです
「そのひとがいること」や
「そのひとであること」を
つぶし、そぎたがる、
エネルギーです
そのエネルギーがやどるかたは
根本的に「その人」が嫌なのです
ですから、関わる必要も、悩む必要もありません
「距離をおくこと」が
相手にとっても、「よいこと」になります
「心をはなし
距離をおくこと、悩まないこと」
それが、相手への優しさに
なったりするんです
……
「認めているひと」からいわれたことは
なやんだって、かなしんだって
良いんだと思うのです
認めているひとは
その人に対し、贈れるものが
もう、あるからです
言いなりにならないためにも
自分で自分を考えればいい
「人が嫌い」なひとは
結論をいえば「はなれてほしい」のです
深層心理では
ですから「はなれてあげればいい」
「思考」も「感情」も
すべて、はなして
はなれてあげればいい
わりあい、嫌いあう相手と
現実的にも心身的にも
距離をとったら、うまくいった、なんて
よくあるんですよ
...
2017-07-26 20:41:41
...
【物語】愛を
(noSeries)
愛を軽んじるものに
愛は与えられない
巡り会えることもふくめ
愛がどれほど貴重なものか
私は、まだ、すべてを知らない
だから、うまく伝えられない
宇宙でたったひとりの人間を
宇宙は愛し続けている
けれど、軽んじる ものに
与え続けたりしない
無償の愛、個人の愛
どちらも、
軽んじるなら
やがて、はなれていく
おおいなるものは宇宙にちかい
神様は個の存在に近い
おおいなるものは
あまりに巨大なため
己のかわりに
この世の細々としたこと
ものをみつめ、わかり
ことをおこしたり
あらわしたりする「もの」を
この世に具現させた
神々さまは、そこにいらっしゃる
人間の魂は、ひとつの神性をもち
かかわりから
愛を、学ぶために
現実を生きている
けっして、うわべの感謝、甘受という態度で
ごまかしながら
無償の愛や、個人の愛を、
搾取するためではない
みずから、愛していくために
人生をあゆんで、学ぶ
神々さまは
おおいなるものの
お心のあらわれ
かれらのご行為は
如実に、おおいなるものの思いを
もたれている
「愛」を軽んじるもの
搾取するもの 利用するもの
ふみにじるもの、侮辱するもの
よくあるものだ、と
湯水のようにつかって
ありがたさを、わかっていないもの
などなどから
愛は、しずかにはなれていく
学ばせるために
ひとは、どこかで
愛されることと
愛されないことに めぐりあう
愛されることや
愛を欲し続けるために
生きているのではないから
やがて、こころから
愛が開花し
愛するために
生命している
「みずから愛しなさい」
わけあたえた魂のひとつが
貴重な愛を、ふかくわかり
ひとに、おのれに
自分から愛していけることを
かれは、待っている
...
2017-07-26 11:24:31
...
力をつけたいなら、君よ、ゲームを創るんだ
(noSeries)
きみよ、ゲームをつくってみなさい
企画して、絵も、シナリオも、音楽も
全部自分でつくって
小さなものから、
とにかくエンディングまで
言いたいことを全部ゲームにそそいで
ゲームはどこまでも受け入れてくれるから
表現しようとするなら
表現しようとすること
全部、受け入れてくれるから
意見にしたいこと
全部、ゲームにしてみなさい
伝わる世界観かんがえて
ひとがたのしんで最後まであそんで
できれば心にのこるような
(意見のままじゃ、できないことを)
何かをつたえたいなら
君、ゲームをつくりなさい
とにかく、おおまかな道筋をきめて
エンディングまでつくりなさい
そこから肉付けしていきなさい
シナリオを書く中に
君の意見、おりこんでごらんなさい
そうして遊んでごらんなさい
……
意見は、気持ちでも
感情でもない、創造性がなければ
意見にたどりつけない
かんたんな言葉ではなくて
伝えようとするを
すべてつくりあげ
面白いかどうか
遊ぶんだ
意見がそのまま見えるだろう
...
2017-07-26 01:26:47
...
【コラム】ヒーラーや能力者の判定方法
(noSeries)
本来、神様からのおりがあったり
縁があったりするものは
ひとつだけ、
やれることがある
「誰のことも否定していない意見」を
述べられる
「エネルギー」の状態であっても
「文面上」であっても
「賞賛」や「ほめること」「もちあげること」ではない
「意見」を
「誰も否定しない」で述べることが
彼らは、できる
:
「述べる意見」が正しい一方で
影ができるごとく「誰かが否定されている」なら
それは「人の意見」になる
悪いものではない
人ははざまで光と影を理解していくものなので
「誰かを否定する意見」が「意見」のひとつなのだ
また、ちょっとした自己チェックにもなるが
「誰かを否定しないと意見が述べられない」のなら
どこかで「魔境」にさしかかっている
「否定しか出来ない」なら、
「魔境」のエネルギーにあてられている
「魔境」と「天界」
はざまの人間にはどちらも親しく、傍らにある
「肯定しかできない」なら
「天」にあてられふわついている
「否定しかできない」なら
「魔」にあてられ、ひきずりこまれそうになっている
:
蛇足だが
「もちあげ」「賞賛」「あまやかす」は
「無理解」がそこにあり、押しつけとひとしい
「魔境」のあてられになる
「天界」のほうは
「やさしさ」「思いやり」「理解」「尊重」がある
:
「魔境」は「怒り」を教えてくる
「天界」は「愛」を教えてくる
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延々とつづく
ぶどうの房のように分かれていて
薄い被膜で
たがいたがいに
ふさがれています
ひとつひとつの房の中に
ひとりひとり
人が行き交っております
私たちは現実で
たがいに出会いますが
なかの、エネルギー界隈は
房ごとですから
もしかしたら
全然違う界隈かもしれません
ふさ
エネルギー界隈により
「状況」はことなります
私の居る房では
先に向かうものと
悪に落ちていくものたちでわかれ
方々は懸命に学びあって
心を高めるような界隈です
ですから私の居るふさでは
「悪魔」というエネルギー体がおり
それが「悪人」をつくり
「ひっかかるもの」をおとしています
「悪魔」エネルギーは
フックのようなものがあって
そのフックを
ひとのエゴイズムとナルシズムが
重なり合ったようなエネルギーに
ひっかけて、
ずるずる、悪の方へ、すこしずつ
気づかないように
おとしていくのです
エネルギーのふさ(界隈)により
状況はかわりますから
見えない界隈で働かれる方々の
「世界の把握の仕方が違う」のは
房がちがうためです
「悪魔がいない房」というのも
存在しています
(どのような形で
進むのかはわかりませんが)
(※悪魔は
エゴイズムとナルシズムに対する
仕置としておりますから
進ませるために居るようなものです……)
(※落ちていく途中でも
エゴイズムとナルシズムに気づき
修正がききましたら
フックもはずれます)
また「神がいない房」というのも
存在しているようです
「内在する魂(神性)しかない」界隈も
隣接する房でしたら
人は行き来することが可能です
あまりに遠い房のことでしたら
飲み込むこともできません
(まるで世界が違う感じ)
隣接する房の「世界」の話は
「なんとなくわかるけど
いろいろと違う」ふうです
房がことなる方々と出会ったり
話したりするのは
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