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見えないことの探求記 - 2018.1
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Series :
[ 私の話 ]
[ 記事シェア ]
[ 作品とともに ]
[ 審神者 ]
[ シャーマニズム ]
[ 夜の話 ]
[ 天部 ]
[ イエス様 ]
[ 如来 ]
[ 釈迦 ]
[ 不動明王 ]
[ noSeries ]
[ エネルギーの物語 ]
[ 雑感 ]
...
2018-01-04 07:22:27
...
目は口程に物を言う(目線の話)と魚心あれば水心ありなこと
(noSeries)
水心あれば魚心あり
わたしは法則のようなことは
わかりかねますが
上のことばのようなことは
この世にはあると思います
見えないものの
おとずれや
人や命とのお会いすること
あるいはなにがしかの
「知識」にめぐりあったり
これすべて縁といわれますが
縁のながれは
欲が欲をよぶ、とか
波動により異なるとか
そんなこともあるのでしょうが
わたしには
己心にひたひたと満ちる
水
その水の性質(たち)、状況
心の水により
魚があわられる
……
たとえば
願いを叶えてくれる、という
ものがあらわれたとして
その起因が
「欲」というのはわかりやすいし
「波動」というのもわかりやすい
しかし、ほんとうのところは
「心の水」ということもあり……
たとえば
部屋は、住むものの
心模様をあらわしやすい、と
いいますが
ひとからみて
どんな部屋にみえたとしても
そのさまが
そのひとの欲とはかぎらず、
エゴとも、堕落ともかぎらない……
他人から見て無駄なもの
無意味、無価値なもの
あるいは「劣っている」ようにみえたり
「わるいもの」に見えたりするものが
そのひとが日々、生きて、過ごすには
とても甚大な意味や価値をもっていたり……
心の水、は
そんな風で
見えないものと
ひとをみるたび
わたしは
そんなことを思うのです
……
なにごとも
あんずるより
うむがやすしと
言われる通りだなぁ、と
おもうのです
いつも
あたまがめぐらせることは
からだが行えることより
残念だったり
残酷だったりするなぁ、と
思います
……
「目線」は
目ほどではないですが
その人を教えてくれます
「なにをみて」
「なにを思ったか」には
そのひとの本性のようなところが
わずかでも
窺い知れる
……
わたしのブログでも良いですが
(もしかしたら、ほかのひとのより
わかりやすいかもしれません)
「目を見るように」
「その人の目が、とらえているものと
対象への気持ちを見て取る」と
そのひとの目を見るように
そのひとがわかるかもしれません
...
2018-01-04 06:46:16
...
夜の話、宇宙からうまれた混沌の生命群と、宇宙のバグから生じた悪意
(夜の話)
面の皮がはがれおちて
本性があらわれるとき
そのとき
世界がすでに
愛により
分けられていたのを
しる
……
それらは
神の信仰をもちますと
信仰をとおり
神威(裁き)がおちますから
神をまえに心を閉ざし
信仰をもつ、ことが
けっしてできないようです
信仰に見せかけた
邪への傾きはもてても
自然をまえに敬いをおぼえたり
森羅万象、万物に
信じ仰ぐこころはもてません
……
「神様」とは
おおいなるものとともに
おおいなるものが
私達人間や生命を守護するため
ともにあゆむため
おりられ、あらわれている
ひかりの、おひとりおひとり、の
総称です
……
たとえば
天使にみえるもの
神様にみえるものに
信仰を問うたとき
こたえられなかったり
あるいは、はぐらかしたり
ごまかしたりするようなら
似非、偽ととらえることができます
「名を偽る」にも
法則があり
天使名、神名をだして
だまそうとしてくるなら
けっこー
やばいものだったりするので
注意が、必要かもしれません
……
それは見えないことに
従事する方にも言えます
それら、に、従事されている方々は
「神様」を信仰することが
まず、できません
(それらが封印しています)
それで、神様への信仰、敬意が
まったく生じなくなるようです
また、それらに従事している場合
ゆっくりと、ですが
かくじつに、
「神のいない世界」に
おくられていきます
(誘われて行くのかもしれません)
ですから
それらに従事している方々は
神の不在をといたり
また神への信仰をたずねれば
ごまかしたり、
奇妙な意見をもちだしたり
するかもしれません
……
そういえば
それらは神々を真似るのですが
本性がまるでことなりますから
それらの態度や言動は
みせかけばかりで
どこか惨めさがあります
そのうえで
それらは「誘い」をよく行います
……
(神々は、言葉ではない導きを行われ
また言葉の大切さを知られている)
……
それらは
真理にみせかけて
人間性にあわない話を
話すかもしれませんし
人間性からは感じないことを
むりやり、
感じさせるかもしれません
それらは、宇宙の根源から
うまれたのではなくて
いわば宇宙のバグから
生じているものです
ですから
そこはかとなく
宣うことのうらに
欲が見え隠れする
(こうしろ、こうおもえ
こうすべき、など
わかりやすい、欲姿ですね……)
(そうした、支配欲は
神にはないです)
それらがはなすことは
それらのまわりのことを
真理にみせかけた話です
ですから
つきつめれば、話してくることが
惨めったらしかったり
悪や堕落といった
「穢れを賞賛する話」になるのも
それらの
特徴かもしれません……
……
それらは
言葉の上では
平等をといたり
愛をといたりしますが
とこかく、内心が
宇宙のバグにつながり
バグは腐敗しておりますから
エゴイストで
ナルシズムがつよく
ひとや命
神や真理のおとしめを好む……
前も書いたことがありますが
「神を愛せない」特徴とともに
それらは、
「言葉をして人にさせる」特徴があります
「こうすべき」をのたまうのですが
それをすべきものが
えんえん
「たにん」になっている
それは、前書いたとおり
それらが「バグ」であり
「悪意」しか持てない存在だからです
……
(ちなみに、天につながるかたは
たとえば
注意や、アドバイスにしても
人がすべきこと、というより
まず「自分が、すべきこと」とか
「自分は出来ているかふりかえっている」とか
(無意識にでも)そんな様子に
なっているので、
見ていて微笑ましいものがあります)
……
それらは、つきつめれば悪意ですから
それらにつながり続けると
ことばに「貶め」と「支配」が
みちるようになり
目線は「邪視」
こころは「邪推」を
はらむようになります
それらは自分が見繕った人形
(傀儡に育てたモノ)を
良さそうに見せかけるのがお上手なのですが
傀儡は、こころがないし
それらがまた善性を封じ込めるから
その言動や態度をおえば
「邪推ばかりしていて」
「(言葉になることことごとく)
他人がすべきことに満ちていて」
「(表れることことごとく)
貶めになっている」
傀儡はいつも
綺麗事をきせられて
良さそうにみえるけれど
そんなふうに
人間にとって大切なものが
かけおちている
(曖昧さとか、距離感とか
現実とか、生活とか、
人のことは、ひとのこと
ひとのこころも、ひとのもの、
ひとのこと、への、尊重とか、
所詮、おのれの理想ごと、
理想ごとへの弁えとか
善論より、大切ですよ)
それらとそれらの傀儡を見ていると
たぶん、そのそばにいる方が
人間であったなら
受けてもないのに
暴力にさらされたのと
同じ日々になるんじゃないかなぁ、と
私は思います……
それらが、
「改善すべき」と宣うポイントが
人間の性格や精神のことばかりなので
……
「ことば」は
とても大切なものです
また、とある神呪にのっとり
特性をもっています
「ことば」に気をつけるのは
「視線」に気をつけることと等しい
自分の目がなにをうけとり
自分の口が
なにをはなつか、を
気にしていたいですね
……
今回、破魔のヒーリングを
「安倍晴明」で名高い神様に
さずかり、いれていただきました
絵画から「受け取る」で流れ込みます
よろしければどうぞ
...
2018-01-03 06:22:57
...
地の猿と不動明王
(不動明王)
侵略者を前にした戸惑い
地球の神々や人間は
そんなに弱くもないし
いま、封印されている
(そして、いま
段階を経て
ゆっくりと解法されていっている)
もちまえの、命の霊性神聖が、
すべて開花したら
もしかしたら、
とてつもなく強く優しく
タフな生命体なのかもしれない、とさえ
思う
私が感じることにすぎないけれど
もしかしたら
地球の神々や人間は
「地球を侵略しに来た」エイリアンや
そのエイリアンと手を組んだ
異界の悪魔に
味わったことのない
侵害や、悪意に
とまどってしまって
それで、二の足をふんで
失策を重ねたのかもしれない
……
不動明王がみいだした
芸術にまで昇華される
究極の、真怒は
活路となり
ようやく
人間と、地球の神々が
エイリアン&悪魔に
対処をはじめた
……
やさしい、というのは
弱さではないけれど
おだやかな愛
神様と、人間と
おたがいのわがままや
密な交流さえ
たのしみであったほどの
おだやかな愛の
いきかいになれていた
人間と神様は
……
悪魔と手を組んだ
侵略しにきたエイリアンの
「侵害」や「悪意」には
なれてなかったんだろうと思う
怒りを恥、
相手への思いやりに
つくそうとした
かれらは
いつも、つねに
誉れ高い命だけれど
やはり、まだ
悪意敵意にたいしては
対策の路がなかったんだろう、と
私は思う
……
人間の本性は人間性だから
怒っては恥じ
相手を嫌っては恥じ
誰かを傷つけては恥じる
そうした
恥の多いことをかさねると
己への、不信がつよくなり
やがて自業におちいることになる
人間は、本性が、人間性だから
……
わたしは
不動明王と
人間性をみてきて
「怒り」にある
真の姿のようなものに
ふれてきた
……
人間が、怒りをおぼえる事、には
怒りがどうかというまえに
人間にとって
悪いことが
その、底にある、隠しこまれていても
……
不動明王は
釈迦の親愛に燃やしつくされ
その焔の中
一度、しんで
うまれかわった
それまでは
憤怒と粗暴の長だった
「憤怒はもっとも度し難い」と
とあるお坊さんがいっていた
人間の憤怒
人間にとって
悪いことに触れると
消えることがない
でも、その怒りのために
誰かを傷つけることは
人間性を、恥じにおとすことになる
……
不動明王の、憤怒の活路
それは静かな
親愛の憤怒
私には上手く言葉にできないが
……
「恥じとなる
憤怒にくるしみ
しかし、
許すこともできない」
そこには
「人間にとって悪いこと」が
ひそんでいたら
人間である者たちが
それを許すことは、できなんだ……
……
不動明王の憤怒は
人間性、親愛のままに
もえさかる
誰を傷つけることもなく
敵意悪意のみを
ほうむる
……
地の猿(悟空と名高い斉天大聖)を
描いたら
不動明王があらわれた
たずねたら、斉天大聖は
不動明王、そのひとらしい……
地の猿は、知恵の神様だった
知恵が深い為に
わかることが多く
許せなくなり
暴れ狂っていたらしい
釈迦に燃やし尽くされ
昇華された不動明王の
もうひとつの現れは
玄奘により、みちびかれ
もちまえの智慧が昇華して
悪意敵意を鎮静していく
神に成り遂げている
不動明王さん、凄いなぁと思う
(別天の
龍王、サンサラナーガヤーガは
悪意敵意からながれこむものを
もちまえの毒で、
解毒していく)
(やっぱり、地球の神は
生き生きしていて
個性的で、おもしろく
タフで優しいと思う)
...
2018-01-02 08:28:32
...
斎唱六面体
(noSeries)
神様の側面は
己の、深層心理の側面とシンクロしている
(そうして個体をこえている)
……
日本の神様は
4つの面をお持ちになられている
キリストさま、釈迦様も
いわれてはいないが
たぶん、四つから八つの面を
お持ちなのではないかと思う
……
神があることを理解するのは
ひとに、深層心理があり
そこで様々があらわれていること、を
理解するのとひとしい
……
そのひと、を、理解するとは
そのひとの理を解ることで
「人それぞれの理」を
解っていないあいだは
他人の姿は、目にうつらない
己の、深層心理の投影になる
……
ふれる「みえないもの」も
またその様で
理を、解れば
現にその見えない者が
なぜ、その人の前に
「顕となったか」が
ひもとけるが
理にはずれていたり
無視していたりすると
「深層心理の投影」に
すぎなくなる
……
それが魔物だったりする
……
堕天したものたちが
天と融合をしつづけている
天をうらみ、憎む思いが
天を愛し、理解するこころに
もどっていっている
あまりの自体に
天を疑ってしまい
堕ちたものたちが
己の、ほんとうのすがたに
もどっていっている
嫌悪と不安の、顕
神につながるすべての心理を
拒絶したり
ないことにしたり
しないでほしいなぁ、と
私は思う
良い子なんて、ならなくていい
……
「斎唱六面」について
天の、ながれは
問かけをおこなっていた
……
(外部リンク)にぎみたまと、くしみたま
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82
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水心あれば魚心あり
わたしは法則のようなことは
わかりかねますが
上のことばのようなことは
この世にはあると思います
見えないものの
おとずれや
人や命とのお会いすること
あるいはなにがしかの
「知識」にめぐりあったり
これすべて縁といわれますが
縁のながれは
欲が欲をよぶ、とか
波動により異なるとか
そんなこともあるのでしょうが
わたしには
己心にひたひたと満ちる
水
その水の性質(たち)、状況
心の水により
魚があわられる
……
たとえば
願いを叶えてくれる、という
ものがあらわれたとして
その起因が
「欲」というのはわかりやすいし
「波動」というのもわかりやすい
しかし、ほんとうのところは
「心の水」ということもあり……
たとえば
部屋は、住むものの
心模様をあらわしやすい、と
いいますが
ひとからみて
どんな部屋にみえたとしても
そのさまが
そのひとの欲とはかぎらず、
エゴとも、堕落ともかぎらない……
他人から見て無駄なもの
無意味、無価値なもの
あるいは「劣っている」ようにみえたり
「わるいもの」に見えたりするものが
そのひとが日々、生きて、過ごすには
とても甚大な意味や価値をもっていたり……
心の水、は
そんな風で
見えないものと
ひとをみるたび
わたしは
そんなことを思うのです
……
なにごとも
あんずるより
うむがやすしと
言われる通りだなぁ、と
おもうのです
いつも
あたまがめぐらせることは
からだが行えることより
残念だったり
残酷だったりするなぁ、と
思います
……
「目線」は
目ほどではないですが
その人を教えてくれます
「なにをみて」
「なにを思ったか」には
そのひとの本性のようなところが
わずかでも
窺い知れる
……
わたしのブログでも良いですが
(もしかしたら、ほかのひとのより
わかりやすいかもしれません)
「目を見るように」
「その人の目が、とらえているものと
対象への気持ちを見て取る」と
そのひとの目を見るように
そのひとがわかるかもしれません